「ドラレコの記憶は途切れない」第5話
初診から数回の診察を経ても、達也の不安は収まるどころか日に日に増していった。ある晩、深夜に目覚め、心臓の鼓動を背中に感じながら、混沌とした思考の中で不穏な声を聞く。これは本当に僕の声なのか? 自問自答するが、答えは返ってこない。闇の中にキジトラ猫の姿が現れる。手を伸ばすと、猫は霧の中に溶けるように消え去り、失望感が心を重くした。夜は深まるが、達也はもはや眠りにつけなかった。
翌日、睡眠不足の重い頭を抱え出社した。開発チームのリーダーとして、コアメンバーとのデイリーミーティングを始める。会議テーブルに置かれたパソコンの画面に資料が映し出される。説明を開始した麻耶の声は少し上ずっていた。画面の内容を追いながら、達也は麻耶の言葉に隠された感情が気になった。麻耶の表情から苦悩がにじみ出ている。
「結局、今回の不具合の原因はソフトウェアにありました。マイコンをリセットした後に……」
麻耶は一瞬言葉につまってから続けた。
「リソースの解放忘れが見つかりました」
声に自責の念が込められている。達也はゆっくりと頷き、彼女の目をじっと見て言った。
「協力会社へ開発委託している部分だね。原因がわかってよかったよ。リセットのタイミングがこんなに複雑だと、誰しも見落とす可能性がある。泉さんだけのせいじゃない。僕も含めチーム全体の問題だよ」
麻耶の表情は曇ったままだ。
「最終チェックしたのは私ですから、私の責任です。開発委託に関係なく、ソフトで間違いは許されません」
「完璧を目指すのは素晴らしいことだけど、DR3のように数万行もコードがあると、完璧は実質的に不可能だよ。今回のような不具合はあってはならないけど、お客さんに気づかれず、実害がない小さなバグなら、それは不具合じゃないよ」
達也は持論を述べて麻耶を慰めようとした。しかし麻耶の表情は固いままで、疲れきった目で達也を見つめた。
重苦しい空気を打破しようと、達也は話題を変えた。
「とにかく、みんなで力を合わせてこの緊急事態を乗り切ろう。やるべきことは山積みだけど、大丈夫かな?」
「何とかします。ただ、いろんなことが重なって……」
達也は麻耶の母親が入院していることに思い当たった。
「ところでお母さんの具合はどう?」
「落ち着いてはいます。でも入院が続きそうです」
麻耶の眼に、言葉にできない悲しみがわずかに浮かんでいる。
「それは大変だね。これで不具合の原因もわかったし、ソフトを直したら有休を取って少し休むといいよ」
例の声が言う。
〈あほなこと言うなや。母親の病気なんか関係ないやろ。やっぱりソフトの不具合やったやんけ。ソフトの不具合じゃないって言い張ったくせに、どないしてくれんねん。完璧を目指してたのとちゃうんかい? 口では完璧、完璧言いながら、ほんとは完璧であることのプレッシャーから逃げたかったんやろ〉
達也は声が言ったことを口にしそうになるが、元気のない様子の麻耶を見て、必死にこらえた。
達也は優しく、しかし力強く言った。
「誰だって完璧じゃない。それは忘れないでね」
麻耶はかすかに頷いたものの、その表情は複雑に変わり、混乱と迷いが見え隠れした。麻耶の問題が簡単には解決しないのはわかっているが少なくとも、気にかけているよ、と達也は伝えたかった。
第6話:https://editor.note.com/notes/n83abb660591b/edit/
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