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「ドラレコの記憶は途切れない」第16話

 数ヶ月後。山田医師のクリニックでは、窓から差し込む光が壁の青い絵を照らしていた。カンディンスキーだろうか、もちろんレプリカに違いない。窓際の椅子に座る達也の隣に、うっすら青みを帯びたヴェネチアングラスの花瓶に紫のアジサイが生けてある。

 以前には見られなかった穏やかな様子の達也は、山田医師が部屋に入ってくるのを見て、ゆっくりと向きを変えた。

 山田医師は変わらない温和な声で言った。

「久しぶりの診察になりますね。その後、具合はいかがでしたか?」

「かなり良くなりました。吹っ切れた感じがします」

 達也がそう言うと、山田医師は興味深そうに訊ねた。

「吹っ切れた、とはどういうことでしょう?」

「まだ声はしますが、それはそれでいいかなと思えるようになりました。素直に声に耳を傾けていると、自分はこういう人間なんだ、とわかった気になります」

「まだ自我の分断がある、ということですか?」

 達也はわずかに肩をすくめた。

「自我の分断って言っていいかはわかりませんが、声はします。すっかり慣れました」

 達也は微笑んだ。

 山田医師は一瞬思案し、淡々と言った。

「そうですか。黒滝さんが苦しくないなら、自我の分断を統合する治療はしなくて良いですね。では、今日はどのようなご相談でしょうか?」

「ぼんやりしていた記憶もほぼ戻りました。それは辛い記憶ですが、もう向き合うしかないです」

 達也は言葉を選びながら話し始めた。

「実は、恋人を事故で失くしました。その時、彼女は妊娠していたんです。それを忘れていたなんて……。記憶が戻ったとき、心の奥底に埋もれていた痛みが一気に押し寄せてきて……」

 声にかすかな震えが混じり、達也は深く息を吐いた。

 山田医師は静かに聞きながら、達也が続けるのを待った。

「事故の瞬間も、その後の混乱も、何もかもぼんやりしていたんです。でも現場に行ったとき、彼女の笑顔、最後に交わした会話、その表情まで鮮明に蘇りました。すべてが一度に押し寄せてきて、どうしようもなくなりました」

「それは本当に辛い体験でしたね」

 山田医師は静かに応じた。

 達也は目を閉じ、震える声で続けた。

「一緒に過ごした時間の記憶が蘇るたびに、胸が締め付けられます。でも、彼女と赤ちゃんの存在を忘れてしまっていたことが、もっと辛かった……。だから、逃げずに向き合おうと決めました」

 山田医師は少し黙った後、優しい声で言った。

「その決断はとても勇気のいることですね。記憶と向き合うことで、辛さと同時に大切なものも取り戻せるかもしれません」

 達也は静かにうなずいた。

「彼女と赤ちゃんのことを忘れずに、自分の中でしっかりと受け止めたいんです。それが今の僕の課題です」

 達也はゆっくりと続けた。

「相変わらず、夜中に目が覚めることはあります。そして朦朧とした頭で色々考えます。そんな時にはもう眠れなくなります」

 椅子をゆるやかに後ろに傾け、山田医師は言った。

「程度の差はありますが、そのこと自体は誰にでもある普通のことですよ。私もそうです。私の場合、そんな時は翌日の予定だけを考えます。例えば、どんな服を着るかとか、どこに散歩に行こうかとか、他愛もないことです。そうしていると心が落ち着いて、いつの間にか眠っています」

 体験に基づく山田医師の言葉に納得し、達也は今回訊きたかったことを口にした。

「ありがとうございます。今度その方法を試してみます。もうひとつお訊きしていいですか。記憶がなかった影響のせいかどうかはわかりませんが、これまでの人生がぼんやりとして、どうにも意味のないものに感じられてしまうんです」

「そうですか。それも誰にでもある普通のことですよ。もし強くそんな風に感じるなら、人生の明るい面も暗い面も、ありのままに受け入れてみてはどうでしょう。暗い面を受け入れることで明るい面がより輝き、明るい面を受け入れることで暗い面に対処できるようになります。そうすれば人生が鮮明になり、意味を感じられるかもしれません」

 なんかドライブレコーダーのHDRみたいだなと思ったが、達也は自分に当てはめて腹落ちはできなかった。

「なんとなくはわかるような気はしますが……」

「それでは、もう少し専門的な観点から説明しますね。記憶とは、現在の自分が過去を振り返るものです。そのため、現在の自分の状態が記憶に影響を与えます。したがって、現在の自分の状態が変われば、記憶の捉え方も変わります。現在の自分が前向きになれば、ネガティブな記憶の中にもポジティブな側面を見出せるようになります。そうして記憶の見方が変わると、現在の自分もより良く変化します。このような好循環が生まれれば、どんな記憶も受け入れられるようになります」

 達也はその言葉をじっくりと噛みしめた。

 魂の奥底で、長い間の束縛から解放される感覚が静かに、しかし確実に芽生えていた。

〈これから長い付き合いになんな〉

 声がいつも通りに言った。

                             (了)
 
 
 

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