「ドラレコの記憶は途切れない」第7話
クリニックの治療を受けても、自我は分断されたままで、これといった改善はなかった。日常生活すら重荷になり始め、息苦しさを感じる日々が続いた。仕事のプレッシャーも拍車をかけた。
デイリーミーティングで、今日の課題をチームで共有していると、例の声が耳に飛び込んできた。声は聞こえるが、何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。チームメンバーの声が、遠くに聞こえる。自分だけが孤立しているような感覚に捉われた。
打ち合わせ机の端から、ミゲルがじっとこちらを見つめている。ミーティングが終わると、メンバーが席に戻る中、ミゲルは居残った。ミゲルがゆっくり歩み寄ってきた。
「黒滝さん、何か心配事?」
ミゲルが静かに訊ねた。
「いや、悪いね、ちょっと集中できなくて」
いつもと変わらずに言ったつもりだが、自分でも驚くほど弱々しい声だった。
「最近、何だかつらそうですね。DR3が大変なのはわかってるけど、他に何かあるの? よかったら言ってみて。日本人には言いにくいことでも、外国人になら言えるかもしれないよ」
ミゲルの言葉はうれしいが、言ってもしようがないことだ。
「うん、ありがとう」
そう言って達也が黙っていると、ミゲルは達也の背中に向かって、ほんのわずかに手を伸ばした。
「アメリカにいたときは、ちょっとした嘘や怒りでも教会で懺悔することがあったよ。そうすると少し心が晴れた。子供の頃は単なる儀式だと思っていたけど、大人になってから、話すことで心が軽くなるってわかった」
無宗教の自分に教会なんて関係ない。そういえばミゲルの両親はメキシコからの移民だった。それで小さい頃からカトリック教会に通っていたのだろう。
ミゲルは達也の考えを読んだように言った。
「別に教会でなくても、誰かに話すだけでいいんだ。話すと楽になるのは万国共通だよ」
達也は考えた。たしかにそうかもしれない。自分の弱みを人に話す抵抗感と、絶え間ない不安の苦しみを天秤にかけ、話すことに心が傾いた。心の内を簡潔にミゲルに話し始めた。
ミゲルは注意深く達也の言葉に耳を傾けた。ミゲルが自分の気持ちを理解しようとしてくれているのを感じ、話すうちに心が少し軽くなった。
話終えると、しみじみとミゲルが言った。
「それはつらいね」
ミゲルは椅子に座ったまま姿勢を正し、達也の眼をじっと見た。
「僕も時々、自分を見失うことがあるよ」
ミゲルは落ち着いた声で続けた。
「うちの家族はメキシコの文化や伝統を大切にしていて、シンコ・デ・マヨには親戚が集まるんだ。シンコ・デ・マヨっていうのは、メキシコがフランス軍をやっつけたプエブラの戦いをお祝いする特別な日なんだけど。でもそんな時、自分はまったくメキシコ文化に属していないと実感するんだ。かといってアメリカにも溶け込めていない。時々、差別的な扱いを受けるし、不法移民や麻薬カルテルと一緒くたにされたりすると怒りが湧いてくる。移民の子やハーフのあるあるかもしれないけど、どちらにも属せない宙ぶらりんの孤独に陥り、自分のアイデンティティが保てない。でも自分だけじゃないってこともわかっている。だから今は、とにかく自分自身に正直でいようと心がけている」
自分の状況とは違うと達也は思った。それでも両親の苦労を目の当たりにして育ったであろうミゲルが人の苦しみに共感できるわけがわかった。
〈わかった風なことを言うやんけ。お前の親はともかく、お前はアメリカ人やろ。現にこうして日本に来てまでしっかり稼いでるやないか。それじゃ何か、アメリカに移民がこなければいいってことか、それとももっと移民を受け入れろとでも言うんかい。まあ日本人の俺が言える筋合いはないけどな……。アメリカ人のお前は本音では、もう移民を受け入れるなと思てんのとちゃうか。そやろ。まあ思い切り自分のことは棚に上げて言うてるけどな〉
「移民の子であることが、自分を見失わせるってこと?」
達也は訊ねた。そんなことを訊くつもりはなかった。
「それが言いたい訳じゃないよ。自分の場合は、自分に正直でいようと思っている、ただそれを言いたかっただけ」
「でも根本的には、移民の子であることが問題なんだろう?」
「そうかもしれないけど、それ自体は重要ではなく、心の在り方が大事だと思っている」
「じゃあ聞くけど。移民を受け入れるべきかどうかについて、どう思っているの?」
「移民については自分なりの考えがあるけど、ここでその話をしてもしようがないだろう」
「偉そうに言うなよ。自分がアメリカ国籍を持って良い境遇にあるから、移民の子のくせに、もう移民は受け入れるなと思っているんだろう」
ミゲルは怒りで顔を真っ赤にし、立ち上がって部屋を飛び出していった。
第8話:https://editor.note.com/notes/nd6bbb1cc36af/edit/
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