見出し画像

「ドラレコの記憶は途切れない」第15話

 日曜の夜、達也がお気に入りの中華料理店を出ると、かなりの雨が降っていた。水溜まりを避けて駐車場へ急ぎ、家路につくと、大通りで不意に声が響いた。

〈行くで。茶臼山へ〉

 何言っているんだろう。辺りはすっかり暗く、雨も降り続けている。しかも、明日は仕事だ。

〈行くで。茶臼山へ〉

 再び声が響いた。

 そうだ、素直に声に耳を傾けることにしたのだった。そう思い直し、達也はハンドルを山の方向へ向けた。山が近づくにつれ、いつものように緊張感が心を締め付け、手のひらに汗が滲んできた。

 茶臼山高原道路に入ると、激しい雨で辺りは幻想世界のようだった。ヘッドライトの狭い光の中、道が曲がりくねり、雨粒が不規則なリズムでフロントガラスを叩く。高速で動くワイパーが払いのけるが、雨粒は絶え間なく視界を限定した。強い横風が時折、車体を揺さぶる。影のようにぼんやり見える道路沿いの木が風に煽られ、不気味に揺れる。湿った大地と葉が混じり合った独特な匂いが車内にまで流れ込む。

 よぎり始めた不安を振り払い、達也はハンドルを握る手に力を込めた。前方を凝視し、一時も気を緩めることができない。

〈ここで停めや〉と声が言う。

 ここまで来た以上、達也は観念するしかない。道路脇に車を停めた。事故を起こした場所のようだ。

〈ここやで〉

 声が言う。

 車を降りた瞬間、土砂降りの雨が頬を叩いた。後席から傘を取り出し、濡れ光るガードレールの所へ向かう。ガードレールは何の変哲もなく、ぶつかった痕跡など、もうあるはずもない。何の感情も涌いてこない。

 全身が雨音に包み込まれる。

 しばし立ち尽くす。

 遠くに小さく、車のヘッドライトが見えた。信じられない速さで接近してくる。不安に捉われ、ガードレールのすぐ傍に身を寄せた。

 突然、ヘッドライトの眩しい光が全てを飲み込むように広がり、眼が眩んだ。轢かれるかもしれないという恐怖が全身を駆け巡り、ガードレールに近づき、後ろ手で触れた。

 心の奥底から、抑えきれない何かが湧き上がってきた。まるでガードレールが語りかけてくるかのようだ。ここだ。確かにぶつかったのはここだ。記憶の断片が閃光する。衝突音、展開するエアバッグ、砕け散るフロントガラス、恐怖、混乱。

 達也が息を呑むと、ドライブレコーダーの映像が脳内に流れた。

 
 春の柔らかな日差しの中を、車は滑るように路面を進んでいる。周囲の新緑が鮮やかだ。遠くに見える山のシルエットに冬の名残はあるが、道路脇にはちらほら花が咲いている。

 達也は、カーブを描く山道を軽快に運転している。隣には絵里が座り、車内は明るくリラックスした雰囲気に包まれている。2人は穏やかな表情で会話を交わす。

「この辺は、去年花見で行った鞍ヶ池公園に少し似てるね」

 達也が言うと、絵里は微笑んだ。

「うん、あの時、救出したね。猫ちゃん」

 桜の木に登って降りられなくなっていたキジトラ猫を見つけた時のことだ。絵里が優しく声をかけている間に、達也が木に登り、猫を降ろしてあげた。2人の大切な思い出だ。

 窓から差し込む日差しを浴び、絵里の顔が輝いている。

「ねえ、あの花、きれいだよ」

 絵里は宝物を発見した子供のように弾んだ声で言った。

 絵里が指差した方向を見ると、山吹色の花が陽を浴びて輝き、その隣で紫色の花が蝶が舞うみたいに風に揺れていた。

「ほんとだ」

 風を切ってワインディングロードを進む車内で、達也は絵里と過ごす時間の尊さを感じていた。何よりもこの瞬間を大切にしたい、そんな思いでステアリングを握り直した。

「実はね……」

 絵里の声がふいに静かになった。

「赤ちゃんができたの」

 その瞬間、達也の心は驚きで止まり、次の瞬間、未来への希望と不安が入り混じった激しい感情の波が渦巻いた。学生でありながら父親になる。絵里と赤ちゃんへの責任、それらの重さが心を圧迫し、達也の注意が逸れた。

 急カーブを眼の前に、ブレーキを踏むのが遅れた。速度を落とせずにカーブへ突入した車は、センターラインを越えてしまう。その瞬間、正面から対向車が現れた。互いにセンターラインを越えた両車は接触し、ビリヤードの球が弾むように跳ね返り、それぞれがガードレールに激突した。

 衝撃が達也の全身を貫いた。意識がぼんやりと霞む。はっとして横を見ると、絵里が頭から血を流し、身体が不自然にガードレールに押し曲げられている。

何とかしなければ。ガードレールに手を触れた瞬間、意識が闇の中へ吸い込まれていった。

 
 全身ずぶ濡れになりながら、達也は冷たく湿った手でガードレールに触れ続けていた。絵里の最後の言葉が心に深く刻まれている。赤ちゃんができたの、この言葉を2度と忘れることはないだろう。

 水たまりの中に絵里の笑顔が浮かんでいる。感情が過去と現在の間を行き来し、一瞬の記憶が閃光のように現れ、そしてまた闇に戻る。罪悪感。喪失感。

 絵里は最後に何を思ったのだろう。痛み? 恐怖? 驚き? 新しい命の可能性? それとも愛? 

「どうして……」

 自身に言い聞かせるように達也は呟いた。

 もはや過去は変えられない。だから決して忘れてはならない。絵里の笑顔、絵里の声、そして最後の言葉。それらは永遠に達也の心に残る。

第16話:https://editor.note.com/notes/nc7def0b371ce/edit/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?