「ドラレコの記憶は途切れない」第1話
<あらすじ>
中堅電気メーカーの技術部でドライブレコーダーを開発している達也は、発売を目前にして、品質試験が不合格の報告書を受け取る。
強いプレッシャーに苛まれ、達也に内なる声が聞こえ始める。過去の記憶もぼやける中、内なる声のせいで上司や同僚と激しく衝突してしまう。メンタルヘルス・クリニックを受診すると、内なる声は自我の分断だ、と診断される。催眠療法などを試みるが、一向に改善しない。
上司の助けもあり、達也はなんとか発売審査会議を乗り越える。その後、かつての事故で失った恋人の記憶が蘇り、心の痛みと向き合う決意をする。ついには内なる声を受け入れ、過去と折り合いをつける。
第1話
低く垂れ込めた分厚い雲が、その上にあるはずの青空と冷えた地面を頑なに隔てている。中堅電気メーカー、パナックスの技術部に所属する黒滝達也は豊田市郊外の工場を出た途端、冷気に圧されるように背を丸め、早足で駐車場に向かった。車に乗り込む寸前、背後に何かの気配を感じ振り返ると、茶色と黒の縞模様のキジトラ猫が、何かを訴えるように鋭く見つめていた。
今朝八時、工場の大会議室で、事業部の管理職とチームリーダーが一堂に会する定例会議が開催された。議題になかった新たな品質問題が報告されると、出席者は息を飲み、事業部長の眉間には不機嫌な皺が寄った。一触即発の空気が張り詰め、不穏な影が部屋を覆った後、会議は紛糾し、予定を大幅に越えて終わった。達也は重い身体と心を引きずるように工場を後にした。
達也はハンドルを握り、名古屋市内のパナックス本社に向かった。自席に着いたら、昼休み直前になっていた。パソコンを立ち上げる。受信トレイに未読メールが溢れている。深いため息をつきながら、画面をスクロールした。緊急のメールから処理し、必要なものには即座に返信した。その中に気を揉んで待っていたメールを見つけた。大学院を卒業してから6年間パナックスに勤め、初めて開発チームのリーダーを任された、ドライブレコーダー「DR3」の品質試験報告書だ。
報告書を開いた瞬間、表紙にある不合格を示す大きなバツ印が眼に飛び込んできた。信じられない思いで眼を凝らしたが、バツ印はバツ印のままで見間違いではなかった。むしろだんだんバツ印が大きく見えてき、胸を圧迫されたように息苦しくなった。報告書を読み進むと、20数種類の試験項目の中で、耐久試験後の画像性能が不合格とわかった。以前から画像性能には問題があり、今回、徹底的な対策を施して臨んでいただけに、衝撃的な結果だ。
DR3は発売を二カ月後に控えている。発売直前に品質試験を満足していないのは、自動車向け製品では異例の大問題だ。当たり前だが品質試験に合格しないと発売できない。どんな製品でもそれは同じだが、どうしてもという場合、家電製品なら発売延期が検討されうるが、自動車向け製品では発売延期は許されることではない。自社の問題だけに留まらず、お客さんである自動車メーカーに多大な迷惑をかけるからだ。つまり何が何でも、大袈裟に言うなら死んでも、期日に発売しなければならない。残されたわずかな期間で、改良案を考え、効果を検証し、改良製品を製作し、再度品質試験し、合格しなければならない。絶対に失敗は許されない。
脇の下に気味の悪い汗が伝う。落ち着け、しっかり考えなければ。長く息を吐き、それから肺一杯に空気を吸った。焦る気持ちを振り払おうと、手の平を上に返し頭上に持ち上げ、目いっぱい背伸びした。
「お疲れみたいだね。大丈夫かい?」
張りのある声に振り返ると、部長の石崎が立っている。通りがかりに声をかけたらしい。
不意をつかれ、動揺気味に返事した。
「あっ、はいっ、大丈夫です。全然大丈夫です」
石崎は自動車向け製品の成長を牽引した功績で、次期役員に目されている。身長は平均より少し高く、しっかりした体格で短く刈り込んだ髪が精悍な印象だ。
「それは良かった。どう、DR3はうまくいっている?」
「……はい、頑張ってます」
少し間を置いてから、答えた。品質試験で不合格になった、とは言えない。バッドニュース・ファーストが大事だとはわかっている。悪いニュースこそ、すぐに報告しなければならないのだ。でも物事には守るべき順序がある。課長へ報告する前に部長に報告するわけにはいかない。
「何かあったらすぐに言ってよ。なにせ事業部で会社にコミットしている品質指標がバツになりそうだから。ほら今朝も事業部長のご機嫌が悪かったろう。だからDR3は問題なしで頼むよ。もしうちの部のせいでバツになったら大変だから」
石崎の口調は柔らかいが、さっき見かけたキジトラ猫のように眼差しが鋭い。
どう答えようか迷っていると、突然、耳元で聞き慣れない声が響いた。
〈そうなんや。部長、そりゃやばいですわ。DR3が品質試験でこけちゃいましたわ。時間もあれへんし、問題なく発売できるかどうかは、もはや神さん頼みや〉
えっ、誰? 達也は驚いて辺りを見回した。周りの人は変わりなく仕事に集中している。どこから声が?
そのときランチタイムのベルが鳴った。石崎は何事もなかったかのように達也に背を向けた。
石崎には何も聞こえなかったのか。
石崎の後ろ姿を見送る達也の耳には聞きなれない声の響きが残っていた。一体何だったのか。達也はもう1度オフィス内を目で追い声の主を探したが、どこにも見当たらなかった。
<URL>
第2話:https://editor.note.com/notes/nc6710a78a4ff/edit/
第3話:https://editor.note.com/notes/ne8af4a72d4d2/edit/
第4話:https://editor.note.com/notes/ndc14f9d88e32/edit/
第5話:https://editor.note.com/notes/na3f684843143/edit/
第6話:https://editor.note.com/notes/n83abb660591b/edit/
第7話:https://editor.note.com/notes/nf1055f62735c/edit/
第8話:https://editor.note.com/notes/nd6bbb1cc36af/edit/
第9話:https://editor.note.com/notes/nb5f2bad80c7d/edit/
第10話:https://editor.note.com/notes/n409c3fc3b8d8/edit/
第11話:https://editor.note.com/notes/n1a20349054a0/edit/
第12話:https://editor.note.com/notes/nba18884be226/edit/
第13話:https://editor.note.com/notes/n14bfb5f57186/edit/
第14話:https://editor.note.com/notes/n782fa24076fb/edit/
第15話:https://editor.note.com/notes/nc878b2d2f11c/edit/
第16話:https://editor.note.com/notes/nc7def0b371ce/edit/
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