見出し画像

「ドラレコの記憶は途切れない」第11話

 達也はメンタルヘルス・クリニックの待合室で周囲を見回した。窓からの光が白い壁を無機質に照らしている。疲れ果てた表情の人たちが、静かにうずくまっている。

 いつの間にか壁にストレス管理と書かれたポスターが掲示されており、隣の棚には自己実現に関する書籍が並べられている。達也にはどこか遠く離れた理想のように思われた。山田医師の治療を受けるにつれ、心の奥底から疑念と不安が浮かんできた。

 診察室で山田医師が問いかけた。

「いかがですか? 何か内面の声に変わりはありますか?」

 達也は少し考え、答えた。

「相変わらず時々、声が聞こえます。でも、変化といっていいか、悪いことばかりでもないような気もします」

 山田医師は微笑んだ。

「それは良い兆しですね。治療が少しずつ、効果を発揮し始めています。このまま一緒に頑張っていきましょう」

「はい、でも……」達也は一瞬沈黙した。

「つらいときは、本当に心がえぐられるほどつらいんです。突然襲ってくるいやな記憶に、抗えないんです」

 達也はそう言いながら、ふと椅子の固さと冷たさに気が付いた。なんて不快なんだろう、と一瞬思いを馳せる。

「それはごく自然な反応です。ご心配なく。黒滝さんが思い出すことには、現在の心境が大きく影響しています。ですから、心の状態が改善すれば、ポジティブな変化が訪れるでしょう。現段階では、催眠療法が効果的だと思いますよ。今日から早速、試してみましょう」

 山田医師は自信満々に言った。

 催眠療法と聞き、達也は緊張を感じた。そんな気持ちを察したかのように、山田医師は優しく言葉をかけた。

「眼を閉じて、深呼吸してみてください」

 達也はゆっくり眼を閉じ、山田医師の声に耳を傾けた。

「そうです、いいですね。そのまま深く呼吸を続け、リラックスしてください」

 言われる通りにした。

「あなたはいま、とても安全な場所にいます」

 山田医師の声が徐々に遠ざかり、達也の意識は深い霧の中に沈んでいった。すると、むしろ恐れが湧いてきた。何か恐ろしいものに出逢うのでは……。

「心を解放し、内面の声に耳を傾けてみましょう」

 次第に現実の感覚が薄れ、達也は幼少期の記憶へ引き込まれていった。

 小さな手が砂場で山を作っている。公園の大きな木が風にそよいでいる。遊具の横から野良猫が見つめている。そして母親の声が聞こえる。

「達也、できるよ。がんばればできるよ」

 幼い自分は何をがんばればいいのかわからない。

 それでも母親のため、がんばらなければと思った。

「声は、どこから聞こえてきますか?」

 遠くから山田医師の問いかけが聞こえる。

「わかりません。でも、僕はそんなに頑張れないんです」

 自分にもかろうじて聞こえるほどの弱々しい囁きで答えた。

 何度か質問に答えた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 とにかく催眠治療が終わった。

 達也は疲れと解放が混じった、重い息をついた。

 山田医師が優しく訊ねた。

「気分はいかがですか?」

「あまり良くないです」

 達也は素直に答えた。

「そうですか。最初はそういうことがありますが、徐々に慣れていきます」

 突然、咳が出た。立て続けに咳が出る。

「大丈夫ですよ。身体を楽にしてください」

 そう言われても喉が痛い。しばらく咳き込み、ようやく収まった。

「落ち着きましたね」

 達也はまだ言葉を返すことができず、ただつばを飲み込んだ。

 山田医師は穏やかな声で言葉を続けた。

「心の状態が身体に影響を及ぼし、身体の状態が心に影響を及ぼします。ですから心身ともにリラックスすることが何よりも重要です」

 何かが違うと直感した。目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、いがらっぽい声で言った。

「僕には、催眠療法が合わないです」

「そう判断するのはまだ早いですよ」

 山田医師は静かに答えた。

 自分の内側に渦巻く疑問をぶつけた。

「先生、分断した自我は本当に統合しなければならないんですか? こんな治療が僕に必要なんですか?」

「確かに、自我の統合のプロセスは時に苦しいこともあります。それでも黒滝さん、悩みから解放され、心を本当に自由にするには、分断した自我をもとのように1つにする必要があります」

 山田医師は淡々と言うが、達也の心には届かない。これは間違いだ。

「催眠療法はやめたいです。自我の統合なんて目指さず、むしろそのまま受け入れた方がよくないですか?」

 山田医師はわずかに眉をひそめた。

「それは逃避ですね。本当のあなた自身を見つけるには、自我の統合が欠かせません。苦しいこともあるでしょうが、自我の統合のプロセスを通じ、自己認識が深まるんです。たった1度のセッションで全てを判断してはいけません。気を長く持って続けてみましょう」

 達也は静かだが確固たる声で言い切った。

「声は自分自身なんです。自分の一部です。否定することはできません。統合なんて必要ないです」

第12話:https://editor.note.com/notes/nba18884be226/edit/ 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?