「ドラレコの記憶は途切れない」第10話
かつて、この道を何度も走ったのだろうか。苦しみから逃れる何かが、ここにはあるのだろうか。
達也が運転する車は豊田市街を後にし、茶臼山高原道路に入った。辺りは静かで時折、野鳥のさえずりが聞こえる。雲間から漏れた日差しが地面に触れ、窓を開けて息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。
面ノ木インターを過ぎ天狗棚トンネルに入ると、ふくらはぎがピクリと痙攣し、つりそうになる。ハンドルを握る手に汗が滲む。手の汗をズボンでぬぐう。トンネルを抜けると、道はやわらかに左にカーブする。山下の話からすると、ここが事故の現場だ。車を停めようか迷っている間に次のカーブにさしかかる。
現場を通り過ぎたら、すっかり緊張が消え去った。車まで軽くなったようで、そのまま走らせる。次のカーブをクリアすると、以前にも味わったことのある心地良い感覚に包まれた。解放感に身を委ね、じわじわスピードを上げていく。
〈おいおい、調子こくなや。安心すんのは早いで。こっからや〉
突然の声に驚き、思わずアクセルから足が離れた。
突如として、頭の芯がうずき始め、景色が色を失ってグレーの濃淡へと変わっていった。ぼんやりとした影に徐々に埋もれながら、タイヤが滑る感触が尻を通じて伝わってきた。慌ててハンドルを切り返した。影の中から、反対車線のガードレールが急に眼の前に現れ、必死で車を立て直した。その直後、衝撃が襲い、鈍い音が耳に響いた。
辛うじてコントロールを取り戻し、車が再び安定した軌道を描き始めても、心臓は激しく打ち、息は乱れたままだった。だが、車を走らせるうちに、少しずつ冷静さが戻り、周囲の風景が再び色を帯びてきた。
茶臼山高原道路の終点に着き、駐車場で車の状態を確認する。バンパーは変形しているものの、車体に大きな損傷はない。直前にアクセルを緩め、速度が落ちていたおかげだ。幸い大きな事故にならずにすんだ。
普段ない身体的な反応には驚かされた。しかし、茶臼山の頂上付近に実際に立ってみても、特別な何かを思い出すわけではなかった。帰りは安全運転を心がけ、ゆっくり帰ることにした。
〈そうや、安全第一や〉
満足そうな声が聞こえた。
翌日、達也は心を新たにして出社した。茶臼山からの帰り道、声に耳を傾ける気になった。そうしたら、心がふわりと軽くなるような感覚があった。
オフィスに入ると、いつものざわめきが心地よく聞こえた。うるさいプリンターの作動音さえも、リズミカルに聞こえた。
ミゲルを見かけ、「おはよう」と柔らかい声で挨拶した。ミゲルは一瞬、驚いた表情になったが、「おはよう」と応えた。
少し安心し、緊張しながらも言葉を続けた。
「この間は変なことを言ってしまってごめんなさい。自分でも何を考えていたのか、はっきりとはわからなくて……、とにかく、本当に申し訳ないと思っています」
「気にしないで」とミゲルは短く返した。
謝罪するのはいつだって難しい。もっと自分の気持ちを伝えたかったけれど、どう説明すればいいのか、言葉が続かなかった。そうしている間に、ミゲルは自席に戻っていった。
先週、5日間の有給休暇を取った、麻耶が出社してきた。
「この忙しい時に休みを取らせて頂きありがとうございました」
麻耶は申し訳なさそうに言った。
「いいよ、いいよ、何とかなったから気にしなくていいよ。お母さんの具合はどんな感じ?」
麻耶は一瞬、目を伏せた。少しの間を置いてから、「容態に変わりはありませんが、いろいろと溜まっていたことを処理できました」と静かに答えた。声は穏やかだが、頬にわずかな影が落ちている。
「そう、それはよかったね」
達也はさり気なく言った。
麻耶は一息つき、話題を仕事に切り替えた。
「再発防止の件はどうなりましたか?」
「泉さんがうまく段取りつけておいてくれたおかげで、協力会社と少しやりとりしただけで、目途が立ったよ」と達也は微笑んだ。
「わかりました。それでは、発売審査会議用に、再発防止の資料を作成しましょうか?」
麻耶の的確な対応に優秀さが現れている。
「うん、お願いします」と達也は応えた。
麻耶の背中が遠ざかるのを見ていると、心の奥底から切実な言葉が浮かび上がり、繰り返された。
お願いします……お願いします……お願いします……。
その声は絶望に満ち、何度も何度も懇願している。
救急車の中で頭痛が激しくなり、やがて意識がなくなる。
意識が戻ると、ベッドに横たわっている。
眼を開けることが苦痛で、異常に瞼が重い。
周囲にはたいそうな医療器具があり、動作音が低く響いている。
そうだ、対向車と衝突した。
絵里は……亡くなった。
閉ざされていた記憶が、少しずつ形を成す。深く息を吸うと、達也は現実に戻った。
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