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一人の怠慢な中年の「萌え」の始まりと葛藤と「猿の根付」

家に帰る途中で、くたびれた。

乗り換えの電車に乗るのさえも、億劫になってしまった。

寄り道をして喫茶店で一服していたらば、隣席で熱烈に、「推し」とその「萌え」のポイントについて語る妙齢のご婦人方の声が聞こえてくる。

ご婦人の推しはどうやら、とある漫画の登場人物だ。
妙齢で二次元萌えとは業の深いことよ、と物知らずに思うが、結局愛のあるファンほどプレゼンに最適な人物はいない。
私は自然に耳をそば立てていた。


盗み聞きは、はしたない事だ。

それだけはしてはいけない、というのが、我が先祖代々の唯一の言い伝えである。
盗み聞かないという教えの元に、かの有名な日光東照宮の三猿、見ざる言わざる聞かざるのうちの、聞かざるの猿を模した明治初期のものとされる象牙の根付を、「聞か猿の根付」時には「聞猿(ブンエン)根付」と呼び、家宝として受け継ぎ、常に身につけるのが我が華麗なる一族の習わしである。
そしてその華麗なる一族の最後の後継者である私は、できる限り日常的に着物に根付を合わせて、日々「聞猿」を身につけるように心がけていた。曽祖母から引き継いだ大島にその根付はよく映る。

その日の私は疲れていた。
得意先と話の行き違いが重なり、あらゆる事が実らぬまま徒労に終わり、そして何も始まらない、終わりも始まらない、まだ始まってもいない、そんな1日であった。

もちろん今日は着物も着ていない。というか、実は数年前から着物を着る機会を減らしている。
正直着物は洋服に比べると面倒くさい。
数年前から肩こりがひどくて帯を結ぶ時、肩甲骨のあたりの筋をつりそうになるし(姿見に筋をつった自分が映し出されるあの瞬間の孤独は独特だと毎回思う)、それどころか半衿の付け替えからもう億劫だという信じられない怠惰さで、着るごとに身につくどころか、いかに怠慢に誤魔化すかという技に磨きがかかってしまった。
全く着ないのもアレだし、先祖代々の教えだし、ひとまず普段は洋服主体で、本当は毎日身につけなければならないあの根付も、まぁ着物を着る時だけでいいかという、無気力な結論に辿り着いたのが5年も前のことである。


刹那は日々の積み重ねの結果だ。

その日、喫茶店にいる私には最早、盗み聞きをするかしまいかの葛藤さえなかった。
盗み聞きだけはしてはいけない。
そんな教えなど知らない。
もはや「聞か猿」は身につけていないのだ。
掟破りこそ個性の芽吹きだ、わが一族に新しい価値観を、そう気を強く持って、平気で盗み聞きしているうちに、そのご婦人方の会話の白熱ぶりに触発された。

盗み聞くほどに「推し」というのは、かくも人にエネルギーを与えるものなのかと衝撃を受ける。
この衝撃を、日常の暮らしの中で受け流してしまうのはあまりに惜しい。
記録がてらに、このご婦人を題材に創作出来ないか、つまり彼女を主人公に物語を書いてみたいと欲深い事を思い立ったのが、大きな間違いであった。

ひとまず、あのご婦人のことを書くには、資料として当該の漫画を読まねば話にならぬと、店を出て、残りの帰り道の途中で本屋に寄る。本屋の漫画コーナーによるのは、いつ以来か思い出せないほど久しぶりで、なかなか本を見つける事ができずに不審にうろつき、小一時間かけて漸く発見購入帰宅即読破である。

私は小学生の頃、「ことわざ辞典」を愛読書とし、あらゆることわざをこよなく愛していた。
(ちなみに当時のお気に入りのことわざは隔靴掻痒であった。難しそうな漢字の並びなのに意味が瑣末なところが逆にカッコイイと思っていた。)
しかし、そんな諺好き小学生の私でも
かの「ミイラ取りがミイラになる」という諺だけはピンとこなかった。
思えばあの頃は若かったのだ。
小学生だったし。

ミイラ取りがミイラになる
そう私は今、まさに体感している。

当該のご婦人はどうか知らないが
私は長年の趣味の積み重ねではなく、中年になった途端に突然「萌える」ということを知ったのであった。
「萌え」という言葉さえない時代に育ったのに。
かつての冬ソナ現象、氷川きよしブームがよぎる。そういう中高年ファン層を冷めた目で、というか割と下に見ていた今と過去、そんな己の底意地の悪さが今自分に突き刺さっている。
これは私のミッドライフクライシスなのだろうか。
隠しに隠した私の本質なのだろうか。
だとしたら、それは一番手頃な現実逃避であり、一番浅瀬のやつではないだろうか。

普通の中年にはなりたくない、そんな逆キャンディーズをモットーとしていた。(それにしてもキャンディーズの三人は二十歳そこらで普通の女の子に戻りたいと言っていた。なんて成熟しているのだろう。)
普通に及ばず、未だに思春期の如く尖り、自意識だけが強い私は一人でがんじがらめになっている。
正直、今萌えている自分を受け入れられない。
漫画という架空の世界に萌えているということに。
願わくば一刻も早くこの一連の出来事を己の記憶から抹消したい。

思えば淡白な人生であった。
そしてこれからも淡白で低温な自分であり続けたいと願っていた。
感情に波風立たず平穏無事でいたい。
自分を俯瞰で見続けているという自負のもとで、なんとか己を保ち、永遠に恥をかいていない事にしたい。

しかし今となっては、昨日の私に言うしかない。
無常。
当たり前の日常など、ささやかな願いなどこの世に存存在しないのだ。

人生は何が起こるかわからない。
人生はチョコレートの箱のようなものと、確かフォレスト・ガンプのママは言っていたはずだ。
ママはいつも正しい。
開けてみなければ分からないとは本当にその通りだ。

家宝の重みを今になって知る。
あの「聞か猿」は大切な事を教えていたのだ。

教えを守り聞猿根付を日々身につけていれば、今日も着物を着ていたら、そもそも半衿の付け替えをめんどくさがらなければ、裁縫を億劫がらなければ、裁縫箱の中身を整理整頓にしておけば、私が怠慢を極めていなければ。
盗み聞きはしてはならない、あの言い伝えさえ忠実に守っていれば、こんな事にはならなかったのだ。
さようなら、私の平穏無事な日々、
さようなら私の現実、そして淡白な中年期。

聞猿根付は、桐箪笥の傍の小さな小棚にしまってある。
不惑迄には必ずこの根付を次世代に引き継ぐように、そう母から言われ、この根付を引き継いだ若き娘時代を思い出す。
時を経て中年になり、掟を平気で破った私は、今この根付を持て余している。
そして萌えるということを知った中年の自分をどうしても受け入れられないでいる。
このままでは、自分が自分でなくなっていくような気がする。大袈裟だろうか。

本当は、もうだいぶ前から、私にはこの根付を持つ資格など無かったのだ。

その事にようやく今、気づいただけなのだ。

そう思っても、私の心は少しも軽くならならない。
ただただ、推しへの気持ちが募るばかりなのであった。


(終わり)




私という一人称で書いていますが、
我が一族家宝の明治初期から受け継いだ聞猿根付などというものは所持しておりません。ありません。
我が一族は華麗なる一般中流家庭です。
(根付の世界をよく知らないので、適当に書いてから一応検索してみたら普通にあってびっくりしました。多分忘れていただけでどこかで見たのだと思います。でも流石にブンエンとは読まないと思います。)

前から気になっていた「怠慢」について書きました。
あと個人的な、アニメ『小公女セーラ』ブーム以来、昔のアニメや漫画を読み直したり見直したりして楽しむ事が増えたのでフィクションの世界に萌えることへの葛藤を書きました。
昨年末の紅白を例に取ってもわかるように、現場の決定権がある人が同世代になったせいかドンピシャの懐メロを楽しむ年齢になり、余暇とはいえこんなに受動的な娯楽に時間を使って良いのかなと不安に思う気持ちがこの文章に表れた気がします。
文章はいつもフィクションなのですが、私は日常で経験したちょっとした出来事を元に話を膨らますことしかできないので、どこからがフィクションなのか正直曖昧です。
虚言癖にならないように、気を強く持って生きたいと思っています。
いつも一人称で書いてますし。

また、別の機会に見たアニメや漫画や映画の感想文も書いてみたいです。書かないと忘れてしまいます。

チョコレートの箱の『フォレスト・ガンプ』はパロディ満載のところが好きで何回も見てしまい、昨年の入院中もベッドの上で観てしまう程だったのですが、今回唐突に文章に出てきたのは某主様が最近SNSに上げておられたのを見た記憶が引き金のような気もします。唐突なキャンディーズの件も別某様の影響ではないでしょうか。

あと話が逸れまくりますが、トムハンクスといえば昔『キャスト・アウェイ』を見て具合が悪くなりそうになったことを思い出しました。今回「怠慢」をテーマにしたいと思った時に文章の途中で七つの大罪の怠慢のことを思い出して、映画『セブン』で具合が悪くなったこともあったなと思いました。フィクションとわかっていても血の描写とか表面的なところですぐ具合が悪くなるのは自分の欠点だなと思います。
敏感な時期とされる若い頃の方が平気でした。
年を重ねると経験が増えるから別の意味で敏感になるのでしょうか。
更に高年になったらどう変わるのか想像もつきませんし、想像する気もない事に気づきました。
大変な蛇足でした。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
気がついた事がありましたら、もちろん特になくても、コメント頂けましたら何より嬉しいです。

青乃 2023年4月14日


















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