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小説 | ならわし (⑥)

目を覚ますと、部屋の中は暗かった。
うっかりソファーで寝落ちしてから随分と時間が経ったようだ。
ゆっくりと起き上がり、部屋の明かりをつけた。ガラス窓に写った自分の姿を見て、突き出した腹に手を当てた。
私もこの子も疲れていたのだ。
のそのそと歩いてカーテンを閉めてから、床に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出し、開いた。
私が寝ている間に、夫から何度も着信があったようだ。メッセージも入っていた。無理もない、私は4時間も寝続けてしまったのだから。
申し訳なく思い、夫に電話をかけようとしたその時、慌ただしく玄関のドアを開けて夫が入ってきた。
「どうしたの」
まだ夜の7時を回ったばかりだ。
「どうしたのじゃない。なぜ連絡がつかなかったんだ」
いつもより2時間も早く帰宅した夫は、ひどく憤った様子だった。
「今日、貴方のお母さんの所へ行ったの。それから帰ってきてソファーに横になったら、つい寝てしまって……」
言い終わらないうちに夫が大きく舌打ちをした。私に背を向け、荒い息を整えている。
「ねえ」
私が声をかけると、夫は私に向けて、手のひらをかざす。私を制するようにして、まだ大きく深呼吸をしていた。
夫は怒りを沈めようとしていた。私に初めて荒々しい態度をとったあの日から、夫は何度か苛立つ様子を見せることはあったが、私が夫に伝えたことを心に留め、守ろうと努力していた。見れば、夫の片方の手は、拳を握り小刻みに震えている。

「今後あなたが私に暴力的な面を少しでも見せようものなら。私はこの子と命を絶ちます……」

以前伝えたこの言葉が、今のところ夫には有効で、夫の行動のブレーキ代わりになっていた。

「ごめんなさい」
私は夫に謝った。言い訳より何より、夫が心から私のことを心配してくれた事実に感謝することが、一番大事なことなのだから。
「心配をかけてごめんね。妊娠後期はどうしても眠くなりやすいの。だから……」
またしても言い終わらないうちに、夫は振り返り、荒い息のまま私を抱きしめた。
「心配していただけなんだよ。なかなか連絡がつかないから、いてもたってもいられなくていつもより随分早く会社を出たんだ。それなのに、君の顔を見て安心するかと思ったら、どういう訳か、怒りが湧いてしまって……。悪い癖だ。家の呪いだよ」
「家の、呪い?」
私は夫から体を離し、夫の顔を見た。
「家の呪いって、なに?」
夫はしばらく黙っていた。説明しづらいことなのか、言葉を探している。
私は辛抱強く待ちたかったが、気持ちが焦ってしまった。
「出産方法のことと関係があるのね?」
私が訊くと、夫は唾を飲み込むように喉を大きく動かし、私の手を握った。
「何もかも上手くいくから。何もかも、良くなるように。君と僕がちゃんと家族になって、この子を幸せにできるように……だから、君には申し訳ないけど……」
夫は床に膝をつき、私の腹に手を当てると泣き出してしまった。
よく泣く夫だと呆れながら、私は夫の頭を抱えるように抱きしめて言った。
「ねえ、和樹くん。私、決めたよ。あの方法でちゃんと生む。和樹くんと私、二人で頑張って、この子をちゃんと生んであげようね」

夫は涙でくしゃくしゃの顔で、私の手を大きな両の手で包むと、何度も何度も頷いていた。



つづく


#短編小説
全九話



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