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逃げる夢 (#シロクマ文芸部)

「逃げる夢を見たって?」
男は、そう言って私と目を合わせようと起き上がろうとする。私は男に毛布をかけ直す動作で、男が起き上がるのを制した。
「そう。とても怖い夢だった」
私は昨夜見た夢のことを男に話した。
暗い森を、一人かけて行く。
サーチライトがぐるぐると回って、私の居場所を突き止めようとしていた。遠くには幾人もの人間が手元のライトを光らせて追ってくるのだ。
私は何から逃げているのか、何処へ向かえばいいのかわからない。私が悪いことをしたのか、悪い人から逃げているのかも。
「何かから逃げるということは、こんなにも恐ろしいことなのね」
私は思い出して身震いをする。
「逃げることは恐ろしいよ」
男は言った。それから私を見た。男の顔は茶色く汚れていた。その中で、唯一きらきらと光る瞳は美しい。
「逃げることはこわい。だけどね、これまで『逃げる』ことからも・・・・・・・・・逃げてきたんだ」
男は喉元に手を当て、一度、二度、苦しそうに咳をした。
「だからね。逃げている時、実を言うと半分は爽快な気分だった」
男はとても柔らかい笑みを浮かべた。
男が語る意味を理解することは、私には苦しい。
私はこの人のことを何も知らない。数日前、この森で倒れて動けなくなっていた男を介抱しただけの私が、こんなにも男に情を抱いている。
「逃げる夢が、どうやって終わったのかは覚えていないの」
私は言った。
「だけど、夢から目覚めたとき、あなたのところへ行きたいと思った。あなたと一緒にいようと思ったの。そういうお告げだったのだと思う」
「少し、感傷的になっているかもね」
男は言った。
「出会ったばかりで、そんなに色々背負い込むことはないよ。君は確かに僕を助けてくれているけど、本来は出会わなかった僕らなのかもしれないのだから」
私は男の言葉に胸が痛んだ。
優しく突き放そうとしている男の気持ちが、痛いほど伝わったから。
「もしも、怪我をしていなかったら?元気な時に出会っていたら?それで、私が一緒にいたいと言ったら?」
男は目を閉じて、二、三度深い呼吸をすると私に言った。
「君と、楽しい冒険ができたかもしれないね」
私は男のがさがさの手を握った。
男の手はあちこちが切れて、流れた血は固まっていた。
「傷口が塞がってきているから、少し体を拭いた方がいいわ」
私は立ち上がった。
「何処へ行く?」
男が私を見上げる。
「沢まで行く。ここで待っていて。少し遠いけれど、家に帰るよりは近い。必ず戻ってくるから」
私はそう言うと男に背を向けた。そしてもう一度振り返って、言った。
「ここにいてよ。私からは逃げないで」


去って行く彼女を見送った。
情けないが、体中がほとんど使い物にならない。それでも、最後の力を振り絞ってもやることは一つ。逃げることだ。
どんなものからも逃げ切る。それが自分に課された任務なんだ。
ゆっくりと立ち上がる。
沢へ向かった彼女の姿はとうに見えなくなった。
ポケットから一冊の本を取り出し、地面に投げた。彼女へせめてもの置き土産だ。
ゆっくり、一歩一歩、あるき出す。
「逃げることは、やはりつらいことだ」
ひとり呟く。
これが夢であったらいいのに。
終わりのある、夢であればいいのに。




[完]


#シロクマ文芸部
#逃げる夢

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