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ゆで卵男 (短編小説)

体の右側がいつもより騒がしい気がして、僕は詰めていたイヤホンを外した。

「ゆで卵を食べたいんだ」

はっきり聞こえるその声は、大声で主張している。
その前に、僕がいるここはどこだっただろう。
目の前にはノートパソコン。その隣には皿があり、卵の殻と粗塩が少々乗っている。
あまりに作業に没頭していて瞬時に思い出せなかったが、ここはカフェで、僕は朝食を取っていたようだ。

「目玉焼きじゃ代わりにならん。今すぐゆで卵をほしいと言ってるんだ!」

誰も聞きたくはない、初老の男の卵へのこだわりが再び聞こえてきたところで、ようやく僕は声のする方へ顔を向けた。
怒鳴り散らす男の隣には制服を来た女性の店員がいて、しっかり腰を折りたたんで男に何やら懸命に語りかけている。
その男の正面には一人の年老いた女が座っていた。男の声しか聞かなかったから、男は一人客かと思ったが、どうやら連れと来ていたらしい。
それにしても、こんなに男が大きな声を出しているのに平気で座っていられるなんて、女は僕と同じようにイヤホンでもしているのだろうか。

僕は遠目から、ゆで卵を求めて怒りちらしている哀れな男を観察した。すると、男の着ているTシャツの首元が赤く染まり始めている。赤い色は少しずつ上昇していき、男の首を染め、顎のあたりを染め、ついに頭のてっぺんにまで達した。次には男の頭頂部から「ぽっ」と湯気があがった。
それを見た僕はすぐさま立ち上がり、カフェのキッチンの入り口に向かった。

「熱伝導性の良い小鍋、それから卵を二つ貸してくれないか」
僕がキッチンの中にいた若い男にそう声をかけると、男は眠たそうな目で3秒ほど僕を見つめてから、決して早くはない動きで戸棚へ歩いて行った。
大きな戸棚から小さな鍋を取り出し、次に冷蔵庫へ向かう。
半身を冷蔵庫の中に突っ込み、片手に二つの卵を掴んで出てきた男は、小鍋にそっと卵を入れると、僕の方を振り返り「水は」と聞いてきた。僕は「少し」と答えた。

準備の整った小鍋を持ち、僕は騒いでいる男の元へ急ぎめに歩く。男の脳天から吹き出す湯気は、さっきよりも勢いを増していた。男の後ろからそっと近づく僕に気づいた連れの女は、怯える表情で僕を見た。見たところ、女はイヤホンなどしておらず、ただただ男の粗暴な振る舞いに耐えているようだった。僕は声を出さずに「心配しないで」と女に口の動きで伝えた。

そうしていよいよ、僕は男の頭の上に小鍋を置く。湯気の勢いがすごい。男の怒りはおそらく頂点に達しているから、気をつけなければ、僕は火傷を負うかもしれない。
バランスを取るように、鍋の中の二つの卵を絶妙に配置しながら、ついに鍋から手を離した。小鍋は、男の頭の上に収まった。
キッチンにいた若い男の水加減が良かったのか、鍋の水はすぐに沸騰し始めた。それと同時に、卵はカタカタと音を立てて震えている。熱伝導性の良い鍋の水はあっという間に蒸発して少なくなっていった。
僕は相変わらず怒鳴り散らしている男の声に被せて、小さめな声で、連れの女に「その水を貸してくれませんか」と言った。
女はためらうことなく、水の入ったグラスを僕の近くに移動させた。
僕は、受け取ったグラスから鍋に水を移す。男の頭にこぼさないよう、慎重に作業をする。
うまく水を移せたところで、男に怒鳴られている店員と目が合った。店員は男の言葉には上の空で、僕を期待の目で見ている。
僕は「もう少しだから」と口の動きで伝える。それを見た店員は、男に向けて一層深々と頭を下げて「申し訳ありません」と謝罪した。
その態度が、なにか男の気持ちに変化を与えたのか、徐々に男を染めていた赤色が薄くなり、通常の人間の肌色に戻っていく。それと同時に、男の頭の上のゆで卵も完成した。

僕は小鍋を頭から下ろすと、テーブルの上に置いた。男の目の前で熱々のゆで卵を鍋から取り出し、紙ナフキンを数枚重ねるとそれに包み、水気を切った。そして男の前に新たに紙ナフキンを一枚広げ、その上にゆで卵を一つ置いた。男はすっかり通常の顔色に戻っていて、きょとんとした顔でゆで卵と僕を交互に見ている。
「無いものは、ときに、本当に“無い”ものなんだ」僕は言った。
「たまたま、運が良かった」
僕はゆで卵を軽くとんとんとテーブルに打ち付けて、少しだけひびを入れてやった。男は、ぽかんと口を開けて僕を見ている。
「食べたかったんですよね。お好きに、食べたら良い」
僕は海外ドラマの役者がそうするように、少し肩をすくめてみせた。
「あ…あ……」
男は何か言おうとしている。
「まさか。ありがとうなんて言わないでほしいな」
僕は男の正面にまわった。
「ありがとうよりも何よりも、ゆで卵が無いと言われたときに、あなたはこうつぶやくべきだった」
今ではゆで卵を握りしめている男は、泣き出しそうな顔で僕の言葉を待っている。
「“こんな日もある”」

僕は男のそばを離れた。そして、小鍋と、ひとつ余ったゆで卵を持ってキッチンへ向かった。キッチンの入口から若い男に声をかける。
「鍋をありがとう。それから、これはゆで卵を必要とする客のために」
若い男はそれらを受け取ると、また眠たげな目で僕の顔をじっと見た。僕は若い男に尋ねた。
「どうして、ゆで卵を切らしたのにすぐに作らなかったんだ」
若い男は、心底面倒だというように、ため息を吐いてから言った。
「そういう日だったんだよ」
「なるほどね」

僕は帰ることにした。



[完]


#小説

🌸今朝行ったカフェで、モーニングセットに付くはずのゆで卵を、店側が切らしてしまったことにかなりご立腹のお爺さんがいました。数分で出来上がると言っても聞かず、ネチネチと汚い言葉で店員をなじるお爺さんを見て、この話を思いつきました。お爺さんの怒号を聞きながら、私は自分のゆで卵を食べ、物語をノートに綴っていました。だからこの話の半分は実話です。










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