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後生の一大事の解決11(完)/阿部信幾先生2023.10.09【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決11(完)



浄土真宗の教えは、一言で言えば、私が悟りを開いて仏様になる教えである。浄土真宗の場合、いつ悟りを開くかというと、臨終一念の夕べと言う。私たちは生きている限り、必ず臨終が訪れる。その臨終の時にお悟りの仏様になるという教えが浄土真宗である。

お悟りの世界を極楽浄土と言う。私たちは悟りの世界が分からないので、仏様が私たちに悟りの世界とはこういう世界であると教えてくださった。それが阿弥陀様の極楽浄土である。臨終の時に仏様の悟りを開くことを、浄土真宗では「極楽浄土に生まれる」という言い方をする。これが要するに後生の一大事の解決である。

領解文の問題

現在、領解文について問題が起きている。新しい領解文が出てきて、それはおかしいのではないかという意見や、古い領解文のままでは駄目だから新しいものが必要だという意見があり、実際に議論になっている。

私自身の考え方を申し上げると、古い領解文のままでは困るという面もある。なぜかというと、古い領解文で使っている「たのむ一念の時」という言葉が、今の私たちが聞くと「お願いする時」と解釈してしまうからだ。

阿弥陀様の救いは私がお願いしたら助かるという解釈では、浄土真宗ではなくなってしまう。どんなに他力のお説教をしても、最後に領解文を読むと「お願いする」という印象を与えてしまうため、間違いやすい。

領解文とは、蓮如上人が法話をした際に、法話は聞きっぱなしにするなと教えたことに由来する。人間は自分の都合のいいように法を聞いてしまう傾向がある。これを「得手に聞く」という。都合の悪いことは無視して、都合のいいところだけを聞くのはよくない。

そこで、あなたが法をどのように聞いたかを互いに言い合いなさいというのが領解文の趣旨である。法を聞いた後にそのまま帰るのではなく、聞いた内容について話し合う。これを「談合」という。

自分の理解を周りに聞いてもらい、もし間違っていたら周りに直してもらえるよう、みんなの前で「法をこのように聞きました」と言いなさいというのが領解文の本質である。

領解文の歴史的背景

蓮如上人の法話の時代には、五人とか何人かの僧侶が代表して親鸞聖人の前で領解文を述べていた。後ろで聞いている人も「私の理解も聞いてくれ」と言い出し、収拾がつかなくなった。そこで全員で領を唱えることはなくなった。

江戸時代になり、様々な事情があって領解文というものが出てきた。みんなでこの領解文を唱えようということになった。これは何かというと、自分の理解が正しいかどうかはこの領解文に照らし合わせて確認せよという意味である。

これを「安心鏡」と呼ぶ。自分の顔に汚れがついているかどうかは鏡を見なければ分からないのと同じように、領解文を拝読することで自分の理解の正しさを確認する。もし自分の理解が違っていたら直すことを「改める」といい、東では「改悔」、西では「領解」と呼ぶ。

東本願寺と西本願寺では、畳の敷き方が違う。東の本山は「不祝儀敷」といって、お葬式の時に畳を縦に敷く。西は「ご祝儀敷」といって、結婚式などのお祝いの時に使う敷物は横に敷く。本山に行けば分かるが、西本願寺は正面に向かって横に畳が敷いてあり、東本願寺は縦に敷いてある。

領解文の内容

領解文の内容は次のようになっている:

「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に『阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え』と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。」

ここまでが安心と報謝である。その次が

「この御ことわり聴聞申しわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、有難くぞんじ候。この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。」と言う。

これは親鸞聖人がこの世に生まれてきたのは、他力の信心を頂いて浄土に往生せよという教えを述べるためだということを意味している。

歎異抄と親鸞聖人の教え

築地本願寺では歎異抄を大事にしているが、歎異抄だけを読んでいると「念仏して助かる」という理解になりがちである。これ自体は間違いではないが、親鸞聖人の教えはより深い。

親鸞聖人の教えは、お念仏に自力と他力があることを明らかにした。自力の念仏では浄土には直に生まれない。他力の念仏で浄土に往生するのだ。念仏が自力と他力とどこで分かれるかというと、唱える心が他力の信心の上の念仏は他力の念仏で、自力の心の上の念仏は自力だということになる。

つまり、ただ念仏して助かるのではなく、他力の信心を頂いてお念仏するものは浄土に往生するという教えなのである。歎異抄だけでは、他力と自力の区別をつけるのは難しい。

蓮如上人と歎異抄

蓮如上人は歎異抄を発見したが、「これは誰かかまわず見せるな」と言った。なぜなら、蓮如上人の時代には時宗の教えが流行していたからである。時宗は一遍上人の踊り念仏で、信心は言わず、ただ念仏さえすればよいとする教えだった。

蓮如上人は御文章の中で「口にただ称名ばかりを唱えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それは大きに覚束なき次第なり」と述べている。これは、口にナムアミダブツと唱えるだけでは極楽に生まれるとは言えないという意味である。

蓮如上人は歎異抄を見つけたが、一般には公開しなかった。これは隠したのではなく、誤解を生みやすいため、よく理解できる人にだけ見せるべきだと考えたからである。

代わりに蓮如上人が我々に与えてくださったのが御文章である。御文章は、親鸞聖人の教えを誰にでも分かる形で残してくださったものだ。昔から御文章のことを「法乳」と呼ぶ。これは、赤ん坊が硬いものを食べられないように、母親が硬いものを全部食べてお乳として与えるのと同じだからである。

硬いものとは何かというと、漢文で書かれた教行信証のことである。教行信証を読める人は、今でも浄土真宗の僧侶の中でもごくごく少数である。

築地本願寺では歎異抄を大事にしているが、歎異抄だけを読んでいると「念仏して助かる」という理解になりがちである。これ自体は間違いではないが、親鸞聖人の教えはより深い。

親鸞聖人の教えは、お念仏に自力と他力があることを明らかにした。自力の念仏では浄土には直に生まれない。他力の念仏で浄土に往生するのだ。念仏が自力と他力とどこで分かれるかというと、唱える心が他力の信心の上の念仏は他力の念仏で、自力の心の上の念仏は自力だということになる。

つまり、ただ念仏して助かるのではなく、他力の信心を頂いてお念仏するものは浄土に往生するという教えなのである。歎異抄だけでは、他力と自力の区別をつけるのは難しい。

教行信証の学びと布教

お坊さんになると教行信証をもらう。黄色い袈裟と共に教行信証を受け取るのは、一生この黄色い衣をかけて教行信証を学びなさいという意味がある。教行信証を学んで親鸞聖人の教えに出会うと、そのありがたさに気づき、教えを広めずにはいられなくなる。これが布教の本質である。

美味しいものを食べたら人に勧めたくなるのと同じように、よいものに出会えば自然と人に伝えたくなる。蓮如上人は教行信証を読み込み、誰にでも分かるお手紙の形にして与えてくださった。これは母親が硬いものを食べてお乳を与えるようなものだから、御文章のことを「法乳」と呼んでいる。

我々は御文章から浄土真宗を学ぶべきである。歎異抄は悪くないが、歎異抄だけでは法然上人の教えと親鸞聖人の教えの区別がつきにくい。もちろん歎異抄を学ぶのはよいが、歎異抄だけで終わってしまっては意味がない。御文章まで進むべきである。

御文章は5冊に分かれており、80通が収められている。これは蓮如上人の後継者である実如という息子が編集したものである。

現在残っている蓮如上人の御文章は264通である。その中から80通を編集して5冊に分けたものが、西本願寺でいただける御文章である。その中で特に分かりやすいのが4冊目の御文章である。

この御文章では、「記法一体の南無阿弥陀仏」について説明している。これは、阿弥陀仏が悟りを開く前の名前である法蔵菩薩の時に立てた誓いが成就した姿が南無阿弥陀仏であるという意味である。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀様が悟りを開いた姿であり、同時に阿弥陀様が悟りを開いたことを私たちに伝える仏様の呼び声でもある。これが「我らが往生の定まりたる証拠」となる。

「定まりたる」という表現は、過去でも未来でもなく、今ここの話である。つまり、今の私たちの世界に証拠が届いているということを意味する。

浄土真宗のご本尊は阿弥陀仏の名号である。これは単なる文字ではなく、仏様の働きを表している。この働きを「方便」と呼ぶ。

仏壇は、このご本尊を受けるために設けるものである。南無阿弥陀仏のない家は真っ暗闇であり、仏様がいないことを意味する。

諸々の雑行と自力の心

「諸々の雑行雑種自力の心を振り捨てて」という言葉は、自力の心を捨てよということである。しかし、自力で自力を捨てることはできない。南無阿弥陀仏に出会うことで、自力の心が不要になるのである。

「後生の一大事」とは、死の問題のことを指す。多くの人はこの問題から目を背けているが、実際には生きていることと死ぬことは切り離せない。仏教では「生死」という言葉を使うのはこのためである。

死は未来のことではなく、今ここにある。そのため、「死ぬまでどうやって生きるか」という考え方は誤りである。むしろ、南無阿弥陀仏という証拠が既に届いているので、この問題は既に解決されているのである。

人は幸せを求めて生きているが、自分の計らいだけでは本当の幸せは手に入らない。本当の幸せとは仏様の悟りを開くことである。南無阿弥陀仏は、阿弥陀様があなたに本当の幸せを与えるという約束なのである。

「御たすけ候え」という言葉は、元々は「助けてください」という意味だったが、蓮如上人の解釈により「お任せします」という意味に変わった。これは阿弥陀様が先に働きかけているという浄土真宗の考え方を表している。

阿弥陀様に任せるということは、自分の人生が阿弥陀様の世界になるということである。これは親子関係に例えられる。真の親とは、子供の幸せを一番に考える存在である。同様に、阿弥陀様は私たちの幸せを一番に考えてくださる存在なのである。

信心をいただくための方法は、聴聞(お話を聞くこと)しかない。築地本願寺にお参りして話を聞いているうちに、必ず浄土真宗の教えが理解できる時が来る。たとえ今はよく分からなくても、聴聞をやめてはいけない。

御文章の内容は、信心を本としていること、雑行を捨てて一心に南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の力によって往生が決定されるということを説いている。


後生の一大事の解決シリーズ一覧


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