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後生の一大事の解決06/阿部信幾先生2023.10.07【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決06


後生の一大事の解決について話す。

仏教では「生まれ変わり」を言うが、我々は「生まれ変わる」というと、どこかに生まれ変わる世界があると考えがちである。特にお釈迦様が生まれたインドでは、8割の人々がヒンズー教徒であり、ヒンズー教は生まれ変わりを信じている。そのため、インド人の8割はお墓を持っていない。インドは墓のない国である。

もう一つ墓のない国がある。それはブータンで、火葬したり、その遺灰を撒いたり、散骨したりする。ブータンでは昔から散骨が行われており、火葬後に山の上から撒いたり、川に流したりする。チベットではさらに特殊な葬送法があり、葬式の8割は鳥葬で、鳥に遺体を食べさせる。しかし、現在のチベットでは環境破壊が進み、食べる鳥が減って問題となっている。

鳥葬では、遺体をただ鳥に置いて食べさせるのではなく、遺体を刻み、大麦の粉を混ぜて団子にし、それを鳥に食べさせる。
この行為は布施であり、自分の体を鳥に捧げることが一つの功徳になる。

親鸞聖人は亡くなった時に墓を作れとは言わなかった。「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし」と言い、鴨川に遺体を投げ入れて魚に食べさせてくれと言った。法然上人も、自分の念仏の唱えられる場所を墓だと思ってほしいと言っている。

どこかに生まれ変わる世界があるとインド人は考えている。天国は空の上にあり、地獄は地の底にある。したがって、我々は人間の世界にいるが、死んだらどこかに生まれ変わると考える。

仏教は魂を否定

仏教では、魂が生まれ変わるとは考えない。仏教の教えでは、行いによって世界が変わるとされ、「自業自得」という言葉がそれを象徴している。己の行いの結果を自分が受けるため、今の状況は過去の行いの結果である。世界は先に存在するのではなく、私たちの行いが世界を作っている。

これに関心がある人は唯識学を学ぶと納得できる。唯識学では、死後も終わりではない。生きている間に私たちは五感を通して世界を受け止めており、これが「世界」である。他に世界はない。つまり、「私が見ている世界」を世界と呼んでいる。だから「私しか私の世界を知らない」。

さらに言えば、私の世界を知っているのは私以上に仏様である。阿弥陀様は私を一番よく知っており、仏様は智慧があるため、私の姿が全て分かる。だから仏様の前でだけ良い格好をしても無意味で、全て見抜かれている。

目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れ、心で受け止めて行った行いは、阿頼耶識(アーラヤ識)という蔵の中に溜め込まれる。「アラ」は暗という意味であり、例えばヒマラヤは「ヒマ(雪)とアーラヤ(蔵)」で、雪の蔵という意味になる。

阿頼耶識には行いが「熏習」として染み込み、死後も続く。行いが阿頼耶識に染みつくことで、それが魂だと「見誤る意識」が生じる。この見誤る意識を「末那識」という。だから唯識学では、人間の世界は五感と心で受け止めている世界であり、肉体が火葬されるとその世界は消える。

科学はこの肉体の消滅までしか理解していないため、死んだら終わりだと言う。しかし、死後も阿頼耶識に染みついた行いは続く。これが縁に出会うことで、人間に生まれる行いが続くとされる。お釈迦様は五戒を保つ功徳で人間に生まれると言っている。

五戒というのは、殺さない、嘘を言わない、盗まない、浮気をしない、酒を飲まないという五つの戒めである。なぜ酒が含まれているかというと、酒を飲むと前の四つの戒めを守らなくなるからである。酒を飲むと「まあいいじゃない」となってしまうため、仏教では酒を禁止している。酒を飲むことができる人もいるが、飲んでいるうちに酒に飲まれてしまうことがある。だからお釈迦様は酒を飲むなと言っている。

五戒を保つことは五つの功徳を守ることである。私たちが行った行いが「因」、それに父と母が「縁」となって、因と縁が出会って私たちはこの人間として生まれてきたと仏教は説く。私たちの行いは阿頼耶識に染み込んでおり、それが縁に触れることで現れてくる。これが現実の世界である。今生まれてからここまで生きてきたが、その過程でやったことが今の自分を作っている。

才能のある人とない人、お金持ちとお金のない人がいる理由について、お釈迦様ははっきりと答えている。お金持ちに生まれる人は生まれる前に施しをした人である。だからお金持ちの人は施すことを考えなければならない。自分ばかりが抱え込んでいると、次にはお金持ちに生まれないとお釈迦様は言っている。施しをしなさいという教えである。

タイという国は面白い。一度も革命が起きていない。王様がタイの男性は生まれてから3ヶ月はお坊さんになる習慣があるからである。王様もお坊さんになっている。タイに行くと、王様がお坊さんだった時の写真と王様の写真が二枚ある。王様に生まれた人は前世の功徳によって王様に生まれたのだから、施しをしなさいと教えている。タイの王様はそれを実践している。だからタイの人々は王様を尊敬している。

インドではTATAという大企業があり、車を作っている。TATAの社長は大金持ちでありながら、学校や病院を作り、困っている人に施していた。だから全インド人から尊敬された。インドでは単なるお金持ちが敬われるのではなく、施しをするお金持ちが敬われる。過去の行いが現世に影響するというのが仏教の教えである。

回向

生まれ変わりというのは難しいことではない。昨日の終わりが今日の始まりであるように、終わりが始まりである。この間に生まれ変わるまでの時間があり、そこで行いを計算する期間がある。それが四十九日である。浄土真宗以外の仏教では四十九日の間にお坊さんを呼んで経を読んでもらう。経を読むことで亡くなった人に経の功徳を送ることを回向という。

葬式無用論が広まっているが、葬式をしない人は親の恩を知らない人である。葬式は親に対して「ありがとう」と感謝の意を示すものである。

お葬式はお別れの儀式であり、法事とは異なるものである。浄土真宗ではないが、お坊さんを呼んでお経を読んでもらうことで、そのお経の功徳が生まれ、その功徳を亡くなった人に送る。これを「回向」と言い、亡くなった人がその功徳を受け取り、より良い場所に生まれ変わることを期待する。この行為を「追善供養」と呼ぶ。多くの人はそのためにお坊さんが存在し、そのために法事やお葬式があると思っている。

仏教は死後のためにあると考えられることが多く、そのためにお坊さんは必要とされる。家族が亡くならない限り寺に行くことはなく、自分の宗旨がどこかも知らないことが多い。葬儀屋さんが宗旨を聞く場面でも、「お宗旨って何ですか?」と答えることがある。

仏教は死後のために用事があると考えられ、生きている間は関係ないとされることがある。これは浄土真宗が盛んでない地域で特に顕著である。首都圏では浄土真宗の寺院は少なく、450程度しかない。

位牌は儒教の文化

位牌は仏教のものではなく儒教のものである。インドには位牌がなく、仏教が中国を経て日本に伝わった際に、中国の位牌文化が持ち込まれた。位牌は故人の名前や官位を記して祀る木簡が由来である。法然上人も親鸞聖人も位牌を作ることや拝むことを勧めていないため、浄土真宗には位牌を拝む文化がない。

浄土真宗は生き方について説かないが、これは皆が生き方を聞きたがるのとは逆である。多くの人は死ぬまでの間をどう過ごすべきかを知りたいと考えるが、これは誤解である。生きているのが今で、死ぬのが未来だと思っているが、この考え方自体が間違っている。

浄土真宗の話はいつも死ぬ時の話であり、お念仏を唱えていれば極楽に生まれ変われるとされる。だからこそ、お念仏を唱えることで極楽に生まれ変われると安心し、いつでも死ぬ準備ができると考える。しかし問題は、それまでの生き方である。なぜ浄土真宗は生き方を説かないのかという疑問が出るが、それはこの考え方そのものが間違っているからである。

人は生まれてから死ぬまでの間、いつ死ぬか分からない。だからこそ、みんな同い年である。若いからといって後に残るとは限らず、若い人こそ危険が多い。外出して仕事をしたり車に乗ったりすることで危険が増えるため、若い人の方が危ないとされる。一番安心なのは寝たきりの年寄りだと言われるが、いつ命が終わるか分からないので、結局みんな同い年である。

死ぬことが未来の話ではなく、今ここにあるという点が重要。生きているのは今であり、明日ではない。例え話として、ローソクの火を使う。火をつけなければ、消える問題は存在しない。しかし、一度火がつけば、その瞬間から消える問題が発生する。人間の命も同様に、母親の胎内に宿った時から死の問題が始まる。

命の始まりは母親の胎内での宿りから。母親が気づいてからは、命を守るために生活が変わる。生まれた後も両親が一緒に命を守り育てていく。命の炎が灯った時点で、死の問題が継続して存在する。

今を生きる

蓮如上人が書いた御文章に「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる。すでに無常の風きたぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ち……」とあるように、命の炎は風で簡単に消える。つまり、死の問題は常にここに存在する。後生の一大事の解決は、生死を一如とすることで、同時に解決される問題でもある。

この考え方は仏教独自のものであり、仏教は生死を一つとして見る。生まれるという理があるからこそ死がある。生死は表裏一体の関係。これが解決されると、どう生きるべきかという問題も同時に解決される。

仏教の教えでは、過去を憂えたり未来を心配したりしないことが重要。過去の行いを悔いても、刈り取られた葦のように萎えしぼむだけ。まだ来ない未来を心配しても無意味で、取り越し苦労となる。

今を生きることが大事であり、過去や未来にとらわれないこと。お釈迦様の教えに従い、過ぎ去った過去を忘れ、今をしっかりと生きることが求められる。

浄土真宗の救いは、病気が治るとか災難がなくなるとかではない。生まれる前にやった行いの結果は影が形に沿うように、逃げようとしても追いかけてくる。自分のやった行いは逃げることができず、常にその結果を受けることになる。

もっと言えば、「やった行いは受ける以外にない」。
これはお釈迦様の教えでもあり、過去の行いを悔やんでも意味がない。こぼした水はコップに戻らないように、過去を悔いてもその結果は変わらない。

過去の行いに対する結果は逃れられないが、仏教の教えはその結果を受け入れることに意味があるとする。生まれた時点で命の炎が灯り、同時に死の問題も始まる。この命の炎が消えないように、今をしっかりと生きることが求められる。

未来を心配するのではなく、今を大切に生きることが重要。過去や未来にとらわれず、現在の行いに集中することで、生死の問題も解決される。これが仏教の教えの本質であり、今を生きることの大切さを説いている。

だから浄土真宗で救われるということは、自分がやった行いの結果を引き受けることができるという話である。そこから逃げる必要がない。だからこそ、今現実的に自分が引き受けるべき問題をそのまま受け入れて生きる人生なのだ。

多くの人は逃げ回る。自分がやった行いの結果であるにもかかわらず逃げる。逃げて逃げて最後には逃げ切れずに、「私の人生は一体何だったのだろう」と言って死んでいく。これは現実を生きていないということだ。

死にたくないという気持ちのまま死んでいく

逃げる人生とは何から逃げているのか?
「死」から逃げているのだ。
「死にたくない」というのは欲望であり、これは煩悩である。この欲望はなくならない。なくならないが、死にたくないという気持ちと死んでいく問題の解決は別物である。
死んでいく問題が解決したとしても、「じゃあ今日死んでもいいですね」とはならない。しかし、死にたくないという気持ちを持ったままでも死んでいくことが大丈夫になるのが浄土真宗である。

これが死の問題の解決である。そして、この解決がどこで行われるかが問題なのだ。

領解文騒動

教えに関わる大変な問題が今起きている。領解文というのは、直筆は出てこないが、蓮如上人が書かれたものだと言われている。その蓮如上人が書かれた領解文をみんなで唱えましょうという習慣が始まったのは、まだ200年ぐらい前のことだ。

領解文というのは、聞かせていただいたことの受け止めである。蓮如上人は聞きっぱなしではいけないと言った。聞いたことをお互いに話し合いなさいと。そうすれば、自分が都合よく聞いたことを他人に訂正してもらえる。例えば、「それは都合よく聞いているから間違いだよ」と直してもらえる。だから、聞いたことを人の前に打ち出し、話し合いをしなさいと蓮如上人は進めた。

蓮如上人は、お説教の後にみんなが集まって「今日のお話はこうだった、ああだった」と話し合いをしなさいと言った。その時に自分が言うのが領解である。

「たのむ」という言葉は、現代では「お願い」という意味しか取れない。これは学校の教育で習っているからだ。「たのむ」「たのみますよ」というのは「お願いしますよ」という意味だ。しかし、たのむという言葉の本来の意味は、親鸞聖人や蓮如上人が使っていた「憑」という字で表される。

「憑」という字は「任せる」という意味がある。何を任せるのかというと、後生の一大事を任せるということだ。阿弥陀様にお任せすると救われるが、「お任せが先」であればおかしな話になる。阿弥陀様が「任せよ」と先に言っている。阿弥陀様が呼んでくださっている。「任せなさい」と。つまり、阿弥陀様が「あなたの後生を助ける。だから、あなたの死後の問題を私が解決するから我に任せよ!」と呼んでくださっている。それが南無阿弥陀仏だと言ったのが親鸞聖人である。

歎異抄は念仏して助かるという内容である。

歎異抄の教えは、阿弥陀仏が念仏を唱える者を極楽に生まれさせるという第十八願を信じて、念仏を申す者が浄土に往生するというものである。つまり、本願を信じて念仏を申して仏になるというのが歎異抄の主な内容だ。だから歎異抄しか聞かない人は、念仏をすればいいという考えに至る。

しかし、蓮如上人は御文章の中で「ただ口に称名ばかり唱えたらば、南無阿弥陀仏とさえ唱えたら極楽に往生できるように思うことは、大いにおぼつかない」と述べている。つまり、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に往生するというのは、親鸞聖人の教えではないということだ。

親鸞聖人の教えは、念仏を唱えて往生するというものではない。この考えが歎異抄に現れるのは、法然上人の教えに由来する。法然上人の教えに基づいて念仏を唱える人が生まれたが、その中には自力の念仏と他力の念仏があり、その違いについて法然上人は明確にしていない。親鸞聖人の仕事は、この信心の自力・他力を明らかにすることだった。

他力の信心が仏になる因、つまり種であり、念仏ではなく信心が「正因」だと主張したのが親鸞聖人の教えである。信心は、聞くところからしか生まれない。何を聞くのかと言えば、南無阿弥陀仏の意味を聞くのだ。

南無阿弥陀仏とは、「お前の後生の問題を私が解決するから任せなさい」という仏の呼び声である。南無阿弥陀仏が先にあり、浄土真宗では阿弥陀が先であり、我々は後である。「私はつまらない後ばかり」という妙好人の詠があるが、阿弥陀様が先で、南無阿弥陀仏が我々の世界に届いてくださるのが先なのだ。人間に生まれたということは、南無阿弥陀仏が聞こえる世界に生まれたということだ。だから、せっかく人間に生まれても南無阿弥陀仏を聞かないで亡くなっていったら、その人生は何だったのかということになる。今日、南無阿弥陀仏を聞けるご縁に出会ったことが人生で一番大切なことである。

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様が「お前の後生を助けるから任せなさい」と呼びかける仏の声であり、それを聞いた私が「後生の一大事を助けてください」と憑み申し上げることだ。南無阿弥陀仏の意味を解くことが浄土真宗の教えの核であり、私たち布教師がそれを説くことが重要である。20年間布教師を養成する学校で教えてきた私にも責任があるが、念仏を唱えれば救われるという考え方は浄土宗のものであり、浄土真宗では南無阿弥陀仏の意味を聞いて救われるものである。

浄土真宗の話をするには、あくまでも阿弥陀様の呼び声が先であることを忘れてはならない。

信心をいただこうという自力心

台所にお姑さんとお嫁さんが二人で立って料理を作ることがあるかというと、なかなかないものである。これも一つの問題だ。例えば、「うちは100年200年の伝統の料理屋であります」というような家庭では、その味を守るための努力が続けられてきた。

嫁と姑の関係について、「あなたはよその家から来たからわからないだろうけど、うちの味噌汁の出汁は煮干しで取るのよ」と姑が教える。そして、煮干しの出汁の取り方を教わり、ある程度まで習得したら「もう大丈夫ね、明日からあなたが台所を頼むよ」と言われる。これが「頼む」ということの意味である。

頼まれるとどうなるかというと、台所がお嫁さんの世界になる。それまではお姑さんの世界だった。つまり、阿弥陀仏を「頼む」ということは、それまで自分の世界だったものが阿弥陀様の世界に変わるということだ。それを「頼む一念」と言う。

信心を「いただく」と言うのは、本来自分にないものだからである。ないものをもらうから「いただく」とか「信心を取る」とか言う。自分の中にはないからだ。何がないかというと、「無疑心」である。「疑い」というのは、浄土真宗では働いている阿弥陀様を疑うことである。阿弥陀様が動いている、どう動いているかというと、阿弥陀仏のお念仏として働いている。

その働きに対して疑うことは、自分の計いである。阿弥陀様が働いているなら自分の計いは不要であるはずだが、阿弥陀様の働きを聞きながらも自分が念仏を唱え、信心をいただいて参ろうとするのは自分の計いである。これがなければ信心をいただけない。

実は一番最後に邪魔するのは、この「信心をいただこうという自力心」である。

自分の計らいで信心を持とうとすることは、阿弥陀様の計らいを疑うことになる。無疑心とは、この計らいがなくなることを指し、これを安心という。阿弥陀の世界に変わるということだ。阿弥陀様にお任せするとは、阿弥陀様の働きが念仏となって働くということ。したがって、阿弥陀様の働きにお任せするということは、念仏をするということを意味する。

法然上人もこの点を指摘している。法然上人の念仏は、このことを言っているのだ。阿弥陀様は常に働いており、その働きに乗ることになる。その働きに乗るとは、今まで念仏をしなかった私がようやく「南無阿弥陀仏」を念仏するようになることだ。同じ念仏をしていても、念仏をして浄土に往生しようとすることはまだ計らいが残っている。そのため、唱えても計らい、唱えなくても計らいであり、いずれにしても「私の計らいでする念仏は全部自力」なのだ。

だからこれをなくす必要がある。「我に任せよ」とは、任せることであり、任せるということは私の世界が阿弥陀の世界に変わることを意味する。阿弥陀の世界に変わったことを信心いただいたというのだ。

わたしゃ六字のうちに住む

そのため、生きる心配も不要であり、明日の心配もいらない。今、私がやらなければならないことをきちんとやり、それから逃げずに一つ一つ引き受けていくべきだ。つまり、自分の計らいで生きているということだ。今まで生きてきた中で、何か手に入れたものがあるだろう。いろいろな幸せを手に入れたが、最終的にはどこかに行ってしまう。私が命がけで手に入れてきた幸せは、気がついたら全てここに置いていくのだ。

私の計らいで手に入れるものは全てなくなっていくが、計らいによっていただくものはなくならない。これが成仏だ。成仏することに間違いはないと確信し、安心して生きられる。このことを忘れて生きている。

島根県に浅原才市という妙好人がいた。彼はたくさんの歌を作り、その中でも特に「鮎は瀬に住む 小鳥は森に わたしゃ 六字のうちに住む」という歌がある。南無阿弥陀仏のうちのひぐらしだという。この歌が信心をいただいたという証拠だ。南無阿弥陀仏のうちのひぐらしであれば心配は不要であり、生死も心配いらない。信心をいただいたということは、生死を超えているということだ。人生の方向性が変わり、命を終えようとも仏になることに間違いない人生が始まっている。これを往生浄土という。

親様

信心をいただいた時に成仏すると言うのは、完全な異安心である。成仏とは仏になることを意味するため、信心をいただいた人が既に仏になったと言うのは一益法門いちやくほうもんと言い、浄土真宗における異安心だ。信心をいただいた時に往生するということは、往生は成仏とは異なるからだ。

往生成仏を同じとし、「信心をいただいた時に往生」と言うのは誤りである。しかし、往生を「生まれていく」と解釈するならば、迷いの世界を生まれ死んでを繰り返す私が、この人生を最後にいつ命が終わろうとも仏になるという教えに出会うことで、生死を超えることになる。これにより、これまでの生き方の中で作ってきた悪業煩悩を、南無阿弥陀仏に依る他力の信心をいただかない限り、また次を作り出すことになる。信心をいただくことは、一念である。

阿弥陀様にお任せする人生とは、この人生で悪業煩悩がすべて消えることを意味する。これは御文章で言うところの、
されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩をのこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて煩悩を断ぜずして涅槃を得といえるはこのこころなり。」ということだ。阿弥陀様の本願の働きにより消滅することは、私の罪が問題とならなくなることを意味する。したがって、「正定聚不退の位に住す」とは、私がこれまで作り続けてきた悪業煩悩が仏になる妨げとならず、阿弥陀様が私を仏にすることを邪魔しない。これが「正定聚不退」の位であり、迷いの世界に再び生まれ変わらないことを意味する。

これが最高の現世ご利益である。

だから計り知れない世界を安心と呼ぶ。蓮如上人は信心を安心と称した。
安心とは一切の計りがないことであり、これをいただくことが信心である。しかし、初めて聞いた人がすぐに理解できるわけではない。だからこそ、何度も繰り返し聞く必要がある。
信心をいただくためには、その気持ちを捨てる必要はない。信心をいただくためには聴聞が不可欠だ。念仏を唱えてお浄土に参る教えではない。聴聞を欠かさずに続けると、ある時に「あ、そういうことなんだ!」と気づくことがある。それが、たのむ一念だ。私の主体だった人生が阿弥陀様中心の人生になる。

蓮如上人の言葉に「弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。」というものがある。これは、「南無阿弥陀仏が主になる」という意味であり、信心をいただくことで阿弥陀様が中心の人生になることを示す。

子供時代が楽しかったのは、親がすべて心配していたからであり、親がいる世界が安心だからだ。しかし、親が今いないため、自分で心配しなければならない。しかし、本当の親に出会うことができる。阿弥陀様は私の幸せを一番心配してくれる存在であり、これを親様と呼ぶ。阿弥陀様が私を産んだわけではないが、一番心配してくれるからこそ「親様」と呼ぶのだ。親のいる世界を生きることで心配は不要となる。これを、たのむと表現する。


後生の一大事の解決シリーズ一覧


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