見出し画像

十二因縁説Ⅰ【仏教の基礎知識04】

十二因縁

十二因縁説は、仏教における因果の法則を示す教えであり、生と死の連鎖の原因を十二の段階に分けて説明したもの。以下の十二の因縁が順に関連し合っている。

  1. 無明むみょうアヴィドヤー(avidyā)。真理を悟ることができない無知や邪見、俗念を。人間の苦しみや迷いを生み出す根本的な原因ともされ、自己の存在にとらわれ、苦しみを超える智慧を欠いた心。

  2. ぎょうサンカーラ( Saṅkhāra)。無明に基づく行為。現世や前世の経験が意識下に刻まれ、その人の心のあり方や行動に影響を与える。パーリ語では「Saṅ」が「集める」という意味の接頭語、「khāra」が「作る」という意味の名詞で、これらが合わさって「再構成」を意味する。仏典の中では「サンカーラー」という複数形が使われ、これは諸行無常の「諸行」を表す。

  3. しきヴィニャーナ(viññāṇa)。行によって生じる識別の意識。意識、生命力、心、洞察力。認識対象を区別して知覚する精神作用。

  4. 名色みょうしきナーマルーパ(Nāmarūpa)。識によって形成される心と身体。人(衆生)の構成要素を示すために「ナーマ」と「ルーパ」という概念が用いられる。ナーマは人の心理的要素を、ルーパは身体的要素を指す。これらは互いに依存関係にあり、切り離すことができない。そのため、ナーマルーパは個人全体を指す概念である。また、名色は五蘊の一つとして挙げられ、「心理物質的な生物」「心と体」「精神的なものと物質的なもの」とされる。

  5. 六入/六処ろくにゅう/ろくしょアーヤタナ(āyatana)。感覚や認識の器官である六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)またはその認識対象である六境(色・声・香・味・触・法)のこと

  6. そくパッサ(phassa)。六つの感覚器官が対象に触れること。触覚の対象、身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど。触境そっきょう触処そくしょとも呼ばれる。心の内界と外界との触れ合い、感覚と対象と識別作用の合すること。

  7. じゅヴェーダナー(vedanā)。触によって生じる感受作用。肉体的・生理的に感じる「暑い」「痛い」などの感覚だけでなく、「苦しい」「快い」などの心で知覚的に感じるものも含む。例えば、桜の木を見て「美しい」と感じることもこれに該当する。

  8. 渇愛かつあいタンハー(Taṇhā)。感受に基づく欲望や渇愛。対象のものごとを貪ったり、執着すること。中核的概念のひとつであり、身体・精神的な「渇き、欲望、渇望、貪欲」を意味する。愛(あい)とも訳される。三種に分類される:欲愛(感官によって得られる刺激・快楽への渇愛)/有愛(存在することへの渇愛)/非有愛(存在しなくなることへの渇愛)

  9. しゅウパーダーナ(upādāna)。愛によって生じる執着。ある活動を活性化させ維持させる源や手段となる、燃料、物質的原因、気質。アタッチメント、執着、掌握といった意味を指す重要概念。これは渇愛の結果として生じるものであり、煩悩の一種とされ、最終的には苦に繋がる。

  10. バヴァ(bhava)。取によって形成される存在や業。衆生としての生存、存在状態を表す。対義語は非有ひう

  11. しょうジャーティ(Jāti)。有によって生まれる存在。

  12. 老死ろうし:生まれた存在が経験する老いと死。

この因縁の連鎖を断ち切ることで、苦しみから解放されると説かれている。

四聖諦

  1. 苦諦(くたい):人生には苦しみが存在するという真理。

  2. 集諦(じったい):苦しみの原因は渇愛(執着)であるという真理。

  3. 滅諦(めったい):渇愛を滅すれば苦しみも消滅し、涅槃(解脱)に至るという真理。

  4. 道諦(どうたい):苦しみを滅するための具体的な修行方法(八正道)が存在するという真理。

中村元先生の疑念

中村氏によれば(『ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』の中で)、初転法輪でなされた主な説法の内容がなんだったのかと後世の仏教徒もあれこれ推量しつつ悩んだようです。
(1)後世南方仏教では、「四つの真理」と「非我」とがベナレスにおいてなされた主要な説法であると解せられた。
『中村氏註:Nidānakathā(Jataka、p82)』
(2)ところが北方の仏伝では中道、四つの真理、五つのあつまりに関する無常・苦・空・無我、十二因縁を説いたとし、さらに弥勒などの諸菩薩に一切諸法の本性が寂静不生不滅であることなどを説いたとしている(中村氏註:「方広大荘厳経」(大正蔵、三巻p607中~p608下)が、これらの諸項は後のものほど年代的にも逐次後世になって付加されたのだと考えられる。(p259)
中村氏は、ゴータマ・ブッダ時代の仏教最初期、ましてや、初転法輪で「四つの真理(四聖諦)」という現在の形のような定型句として説かれたということはないと考えているようです。
しかし、中村氏は「四つの真理(四聖諦)」という語やその内容の定型化は仏教の諸体系の発展史の中ではかなり早くに成立したと考えているようです。

十二因縁論は、後世に付加されたものであり、ブッダの教えではないだろう。北伝の大乗仏教系の流れを組む教えには、後世付加されたものが多い。ただし、十二因縁説は仏教だけでなく後世に大きな影響を与えた重要な思想であるため、ブッダが直接教えたものではないにせよ、無視することはできない。少なくとも、ブッダが教えた四聖諦の集諦や滅諦を詳しく論じたものである。仮に後の時代に付加され、整備されたものであっても、非常に重要なものに変わりはない。

異なる教典による内容の違い

実に尊い真理である<苦しみ>は次のごとくである。生れることも苦しみであり、老いることも苦しみであり、病も苦しみであり、死も苦しみである。憂い・悲しみ・苦痛・悩み・煩えもまた苦しみである。憎い者に会うのは苦しみであり、愛する者に分かれるのも苦しみである。
求めるものを得られないことも苦しみである。ようするに、執著の素因としての五つのわだかまり(五取蘊、心身環境)はすべて苦しみである。
実に尊い真理である<苦しみの生起の原因>は次の如くである。それはすなわち、再び迷いの生存をもたらし、喜びと貪りとをともなう、ここかしこに愛着して歓喜を求めるこの妄執(渇愛)である。それはすなわち享楽的欲望を求める妄執と個体の生存をむさぼる妄執と生存の絶無を望む妄執とである。
実に尊い真理である<苦しみの消滅>は次の如くである。それはすなわち、その妄執を完全に離れ去った消滅であり、捨て去ることであり、放棄であり、解脱であり、こだわりのなくなることである。

実に尊い真理である<苦しみの消滅に導く道>は次の如くである。これは実に八項目より成る尊い道(八正道)である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、ただしいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい気づかい、正しい精神統一である。

中村先生によると、これはだいぶ後に定型化されたものであり、最初からこういった教えがあったわけではないということだ。ブッダが最初に解脱した時に、こういった教えがひらめいたとは考えにくい。八正道のような教えは後で作られたものであり、悟った後に人々を教えるための方便として作られたものだと思われる。

例えば、愛別離苦や怨憎会苦のような概念が、悟りを開いた瞬間に自然に出てきたとは考えにくい。これらの言葉は、世界が苦しみであることを説明するために、人々に具体的な苦しみの例を示すために後で作られたものだと考えるのが自然だ。

ブッダにとって、出家した時点でこの世界が苦しみであること、輪廻的生存が苦であることは当たり前のことであった。したがって、出家した時にこういったことを具体的に考えていたわけではない。これは明らかに説法のために後で考え出された教えであり、整備されたものだということがわかる。

ブッダは別の教典で全然違うことを言っている

「そして比丘たちよ、私にとって、この四聖諦についてこのような三転十二行相をもってしての清浄な如実知見が生じなかった間は、比丘たちよ、私は、神々を含む世界において、悪魔たちを含む世界において、梵天を含む世界において、沙門・バラモンを含む衆生の中で、神々と人間とを含む衆生の中で、最上の正しい目覚めに目の当たりに目覚めたとは宣言しなかった。(27)
そして、比丘たちよ、私にとって、この四聖諦についてこのような三転十二行相をもってしての清浄な如実知見が生じたので、比丘たちよ、私は、神々を含む世界に……神々と人間とを含む衆生の中で、最上の正しい目覚めに目の当たりに目覚めたと宣言したのである。(28)
また、私には知見が生じた。私にとって心の解脱は不動である。これが私の最後の生であり、今や再生はない」と。幸あるお方はこのように語られた。(29)
***
その時、目覚めたお方、幸あるお方は、ウルヴェーラー村はネーランジャラー河の岸辺にある菩提樹の下にあって、最初の目覚めを体験された。時に、幸あるお方は、菩提樹の下でたびたび結跏趺坐しまま、七日の間、解脱の楽を味わいながら坐したもうた。(1)
時に、幸あるお方は、その「七日目の」夜の初夜に、縁起を順逆に考察された。
無明に縁って行が生じ、
行に縁って識が生じ、
識に縁って名色が生じ、
名色に縁って六処(六入)が生じ、
六処に縁って触が生じ、
触に縁って受が生じ、
受に縁って愛が生じ、
愛に縁って取が生じ、
取に縁って有が生じ、
有に縁って生が生じ、
生に縁って老と死と愁いと悲しみと苦と憂愁と悩みとが生ずる。
このようにして、すべての苦の集まりが起こってくるのである。
また、無明が余すところなく滅すれば行が滅し、……、有が滅すれば生が滅し、生が滅すれば老と死と愁いと悲しみと苦と憂愁と悩みとが滅する。このようにして、すべての苦の集まりは滅し尽くすのである」と。(2)

[「仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む」:宮元啓一/春秋社]

解脱=全的な気づき=瞑想

ブッダが悟りを得て解脱した瞬間には、整備された言葉や複雑な思想が出てくるわけではない。もっと単純で簡単なものだろう。解脱の瞬間の悟りは、おそらくこの大切なことだけだったと思う。

渇愛、これは性欲のことだ。簡単に言えば、渇愛の中で最も強力なものが性欲である。ただし、ブッダの場合は苦行も行っていたため、生存欲や激しい苦行の中で「生きたい」という欲望、さらには「いっそのこと死んでしまおうか」という欲望も強く起こっただろう。これらすべてをまとめて渇愛と言うが、基本的には性欲や情欲が渇愛の中で最も大きな比重を占めていたと思う。

ブッダの悟りとは、この渇愛によって生まれ変わるのだということを悟ったこと。この世界に生まれ変わる理由は渇愛によるものであり、これを滅ぼせば解脱することができる。しかし、その方法は八正道ではない。
では、どうすればいいか。
八正道の内容を詳しく見ると瞑想が重要であることがわかる。中道の教えとは、ブッダが大変な苦行を経て得たもので、享楽的な生き方を否定し、激しい苦行も捨てた。その中間が中道である。

中道とは正しく生きること。正しく生きるとは「明敏な気づき」、すなわち「全的な気づき」である。クシナムルティというインドの哲人が「全的な気づき」という言葉を使っている。人間は生きている間、何かに意識を集中しているが、そうではなく心を開いて全てのものを同時に気づく、ずっと気づき続けることが修行であり、それが瞑想である。
「全的な気づき」イコール瞑想。解脱をした者は必ずこれを行っている。

八正道とは全的な気づき

八正道の「正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい気づかい、正しい精神統一」。これは日常生活のあらゆる項目に対して気づいていることを示す。丁寧な言葉遣いや人に優しくすることを指しているわけではない。自分の行動に気づいていることが重要だという意味。

「正しい」という言葉には道徳的であることも含まれているが、本質的には自分の言動に気づいていることを指す。24時間すべての行為にわたる気づきが八正道の本当の意味だ。

ブッダが悟ったことは、なぜ輪廻するのかという理由が性欲にあるということ。その性欲を滅ぼすことで解脱が可能となる。そのためには完全な気づき、「全的な気づき」が必要。

日常生活を瞑想にすること。これは苦行ではない。断食などは必要なく、食事も気づいて行えばよい。断食などの苦行とは全く別で、気づきと意識的な行動が重要。中道の本当の意味は瞑想にある。ブッダはそのことを悟ったはずだ。瞬間的に気づいき、瞬間に解脱したはずだ。

縁起説作者、サーリプッタ説

ブッダの立場であれば、弟子たちに形而上学的な知識を教えたりはしない。その理由は、アートマンやブラフマンといった概念を、自分がブッダのような体験を通じて理解しているのなら別だが、全く経験がない者にそれを教えると、その言葉による妄想が生まれるからだ。
具体的には、アートマンについて「こういうものだ」と妄想すると、人のような形、本当の自分という形を想像し、その瞬間に究極のサマディー(滅尽定)には入れなくなる。だからこそ、ブッダは弟子たちに形而上学的な概念にとらわれず、ただありのままに全てを見つめるように瞑想するよう教えた。
例えば、ブッダはアストラル体の感受作用なんて教えることはあり得ない。彼が教えたのは基本的な瞑想の技法と、それに伴う気づきだけだ。アストラル体に関することは、ブッダの教えとは無関係である。
ブッダは何かしらの12の連鎖を悟っていたはずが、それを弟子たちには教えなかった。しかし、弟子たちは「三転十二行相」という言葉を知っていた。特に、哲学的な議論を好むシャーリプトラのような弟子は、この概念に興味を持ち、それについて聞きたがる。しかし、抽象的な概念は解脱の妨げになるため、ブッダはこれを教えなかった。
ただし、時折、あるレベルの弟子には、ブッダは形而上学的な妄想に陥らない範囲で教え導いていたにちがいない。

「比丘たちよ、どう思うか。わたしの掌のうえの葉と、この林の葉と、どっちが多いだろう」
比丘たちは、もう、この師のこのような質問に慣れているので、「それはもう林の葉のほうが……」と答えながら、今度はなにを仰せられるであろうと待ちうけていた。そのとき、ブッダ・ゴータマが説いたことは、こうであった。
「比丘たちよ、それとおなじように、わたしがさとり知って、しかも汝らに説かないことはおおく、説いたことはすくない

ゴータマ・ブッダは、縁起説については、ごく簡単にしか触れていません。最近の学説では、縁起説を展開するのに熱心だったのは、弟子のサーリプッタだったようです。また、時代がたつにつれ、いろいろな項目の縁起的連鎖が複雑に説かれるようになります。もっとも発達した縁起説は、十二因縁説(十二支縁起説)ですが、どの学者もその説の真意を解明するのに頭をかかえている状態ですので、ここでは説明を省略いたします。

[「わかる仏教史」宮元啓一/春秋社]

三転十二行相

最初の夜、菩薩は洞察的超感覚的な神のごとき目によって生き物が輪廻転生する有り様を見る。生き物は肉体が滅びるとその悪い思考と言葉と行いによって暗い苦痛の場所地獄に沈みまた良い思考と言葉と行為によって明るい天上界に登るのである。
中夜分になると菩薩は以前の多くの生涯に神眼を向けて洞察する。無数の世代に渡り自分と他の生き物たちとの過去の生涯を観察し次々に快楽と苦痛、幸運と不運に遭遇したことを全て知りそれぞれの生涯において自分の名が何でどの家柄どの階級どんな生活環境であったか、またそれぞれの生涯の寿命はどれほどであったかということを想起する。
夜明け近い時に、菩薩は苦悩の成立と苦悩の転換を考察する。世界が大変な苦境に沈んでいて生き物たちが生と老と死と再生の支配を受けている有り様が菩薩の前に明らかになるがこの苦悩の厄介な連鎖から逃れる方法は菩薩にもまだ分からない。
ここで菩薩は自問する。何の原因によって老と死が起こるのか。そして老と死の原因は誕生であると知る。さらに連鎖を遡ってみると……

仏教/ヘルマン・ベック

四聖諦という直感的にパッと悟るものがあり、ブッダはそれによって解脱をした。そして、七日間にわたって解脱の楽を味わった。
ブッダは「三転十二行相」と呼ばれる悟りを得た。この「三転十二行相」は十二縁起に非常に近いものであった。そして、最上の目覚めを得たと宣言した。しかし、ブッダは弟子たちにこのことを説かなかった。説法としては四聖諦を説いたのみである。

しかし、これだけでは満足できなかったサーリプッタ(舎利弗)は、ブッダ入滅後も一生懸命に考え、ついに十二因縁説を発見して教典の中に付加した。

……というのが、最新の説である。


仏教の基礎知識シリーズ一覧


#仏教 #仏法 #禅 #瞑想 #マインドフルネス #宗教 #哲学 #生き方 #人生 #仏教の基礎知識シリーズ

今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。