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【共感覚と私】感情に揺さぶられない安全基地を持つこと

桜が満開のようだ。今年はまだ一度もしっかりと観れていない。

去年のはじめての桜は、九段下の雨の中だった。

お客様の前笑っているのがやっとで、少し動かすだけでもずきんと痛む手をそっとなでながら毎日を過ごしていた頃に、ある人と桜を観に行った。

自信もなく、縮こまっているような私は全てがうまくいかず、その人ともこのなみだ桜が散ってしまうと同じようにうまくいくことはなかった。

「私みたいなのが人に好かれる資格なんかない」

ちょうど1年前の私はずっとそう思っていたし、立っているだけで冷や汗をかきそうだった。

このタイトルにあるように、毎日体に針の雨が降り注いでいるように感じていた。普通に生きているひとたちが羨ましくて、厳しい現実から逃げたくて仕方がなかった。

「ひとつひとつ。」

幸い私は周りの人たちにとてもとても恵まれていた。

私は昔から、周りにとてもいい人が集まってくれて、そしていつも助けてもらう。感謝をいくらいっても足りないほどに、あの時は周りの助けがなかったら生きていけなかった。

焦る私を見ながら、周りのひとたちがひとつひとつ、問題を解決していけばいいと落ち着いて言った。私の身長をはるかにこえるほどの山積みの問題たちが本当に片付くことなんてあるの?

半信半疑だけど、やるしかない、ひとつひとつ、落ち着いて。

そうやって乗り越えてきた。
まだまだ辛く涙を流す日もあるけれど手の痛みが和らぐ頃には、心の痛みも随分となくなっていった。

自分の共感覚と、真正面から向き合うようになったのもちょうどその頃だ。

浮き沈みの激しい毎日で今よりもころころと感情の色が変わっていった。それを描き止めてみて欲しいと言われ毎日描いた。

私は今、感覚があまり揺さぶられない場に好んで一人でいる。
感情がころころ変わると、感情が色で観えてしまう共感覚のせいで心だけでなく視覚や聴覚もとても疲れてくるのだ。

一度、外に出た時に店先で大声で怒鳴る人を見た。
その時に心がとても恐怖をあおられ、同時にまるでつめでひっかいたような絵を描いたことがあった。

嬉しいの感情の色は、虹色だ。

恐怖の感情は、黒かったり赤かったりする。その上に爪痕やタイヤの跡のようなものがあったりする。それを見るのは、とても疲れる。

だからむやみに感情が揺さぶられないように、基本的には家で出来る仕事を好んでしている。

もちろん一歩も出ないというわけではない。外に出て写真を撮ったりお仕事に向かうのはとても楽しいしワクワクする。

だけど「感情が揺さぶられない安全な場所」や「安定した人のそばにいる」ことは、共感覚者にとってすごく大切なことだ。

これは一度、川崎先生とLIVE配信をした時に話した覚えがある。

真っ白な無の状態になれる場というのは、感覚過敏の人間には必要不可欠だと。これを自分が共感覚者だと自覚していない人は、気づかずにしんどい思いをしている可能性があるかもしれない。

私もそのことに気付いたのは最近だから。
それを伝えるために私はこうやって文章を書く。
これは私の使命だ。

文字を使い人に伝えなければいけないことは、私の中にきっとたくさんある。それを全て出せていけるように、できればいいなと思う。

ああ、久しぶりに鮮やかな色が観たい。
明日天気が良かったら、桜を観に行こうか。自転車に乗って。



山口葵


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