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シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その11):「統制」が生み出す犠牲

■「統制」の水面下で起きていること

前回、人がいかに社会に適応するか、つまり社会的なルールや規範をどのように受け入れ、生きる態度として定着させ、気質化しているかを6つのタイプに分類して見てきました。
簡単に振り返っておきます。
社会的なルールや規範を内在化(統合)しているなら、次の二つの気質のどちらかを示すか、あるいは双方のバランスをうまく保っているでしょう。つまり、この二つが同じ程度に他より突出している、ということです。
○職人/研究者気質:自由意思で独立独歩
○商人気質:自由意思で他者との協調を重視
さもなくば、社会化(社会的ルールや規範を守ること)の促進者(親・教師・上司など)から統制を受けている(きた)なら、その統制に対して反抗的か服従的かで、次のような気質を心ならずも育ててきたかもしれません。
○軍人気質:独立統制に服従
○革命家気質:依存統制に反抗
○山師気質:独立統制に反抗
○シンデレラ気質:依存統制に服従
さらに、こうしたタイプ分けは単一の類型に偏るというよりも、複合的に表れる場合がほとんどでしょう。つまり、ある場面では軍人的に振る舞い、ある場面ではシンデレラ的に振る舞う、あるいは相手によって態度を変える、ということも起こってくると予想できます。
さらに、このように統制的に社会化を促進された人は、他者に対しても統制的に振る舞うだろうことが予想されます。
また、やっかいなことに、取り入れが強くなればなるほど思い込みが激しくなり、社会化の促進者からのプレッシャーはそれほどでもなかったとしても、ある一定の方向に向けて、自分で自分にプレッシャーをかける、ということも起こってきます。

こうした人が他者に対したときの一種の「口癖」あるいは「思い癖」(反応のパターン)を列挙してみるなら、次のようになるでしょう。

「私もやっているんだからオマエもやれ」
「人に頼るヤツは無能だ」
「オマエは能無しなんだから、オレの言う通りにしておけ」
「できるものなら、やってみせろ」
「ほら見ろ、だから言わんこっちゃない」
「私は自分ではうまくできないのだから、誰かが私を助けて当然」
「そんなこと、私に押しつけないでください」
「うまくいかなかったのは、私のせいではありません」
「私は、人の言いなりになっていないと不安」
「人の言うことなんか、いっさい聞いてやるもんか」
「何を言われようが、自分で責任を取ればいいんだろ」
「知い~らないっと!」
「相手が誰であろうと関係ない。私が言っていることが正しいんだ」

これらの口癖・思い癖に共通しているのは、「私はもうこれ以上の対話(コミュニケーション)をお断りします」というメッセージでもあります。「私はあなたの立場には立たないし、自分の立場を変えようとも思わない」というメッセージでもあるでしょう。要するに、自分のことも、目の前の相手のことも深く理解したいとは思っていない、ということです。このような振る舞いが続くと、人は社会に見せている外面的な自己感覚だけが自分のすべてであると思い込み、内発的に動機づけされた自己感覚はどんどん希薄になっていきます。

これは私が実際に体験したことです。
あるとき、ある仕事の現場で、私はある若者とペアを組んである作業をあてがわれていました。その若者は真面目で仕事熱心でした。
休憩時間にトイレに入ると、トイレの窓が開いていて、窓の外を見ると、たまたまその若者と、その現場を仕切っている上司が会話をしているところが目に入りました。向こうは私に気づいていません。聞くとはなしに二人の会話を聞いていると、上司が仕事への心構えについて、かなり統制的な言い方で若者に指示を出している様子が伝わってきました。若者は素直に聞いています。
休憩時間が終わり、再びその若者との作業が始まると、その若者は私に先ほど上司に言われた通りの内容を言われた通りの口調で、意気揚々と伝えてきたのです。まるで自分が長年考え続けてきたことを私に披瀝するような口調です。もちろん若者は良かれと思ってやっています。しかし、その内容はともかく、私はまさに、上から下への統制のダイレクトな伝達経路を見せつけられたような気がしたものです。

■再生の前の破壊

ここで、少しやっかいなお話しをしておきましょう。
自分の現時点での立場や気質(社会的適応性)で、それなりに問題がなく、うまくいっていると、たとえそれが統制的でも抑圧的でも、その期間、生きるモチベーション(自律性)は、比較的高い状態で安定してしまう、ということです。「私は何の問題もない。仕事も私生活も順調だし、意欲にも溢れている」という認識です。仮に、本人がこの時期人生のターニングポイントを迎えていたとしても、「このままでうまく乗り切れるだろう」と思うかもしれません。
しかし、実はその水面下で現実との「齟齬」の感覚は拭い難く潜在化しています。この「今ある現実の自分と、本来あるべき自分は違うような気がする」という感覚は、本人の根本的な成長の欲求と関連しているため、一段階成長するまでは、その「齟齬」の感覚が消えることはないでしょう。そうすると、見かけ上の順調さの裏で、徐々に内発的なモチベーションは低下し、外面と内面との齟齬の感覚は、精神的・肉体的症状として現れる場合もあります。気力は充実しているはずなのに、肉体的な症状に足を引っ張られる、ということも起こってきます。
それは、創造の裏で破壊が準備されている、と言ったらいいでしょうか。もちろんその破壊は再生のために必要なことです。新しい一段階上の自分に成長する(自己を再構築する)ためには、いったん旧い自分を破壊する必要がある、ということです。
「なぜ人間はそんな回りくどい面倒なプロセスを経ないと成長できないのか?」とあなたは思うかもしれません。しかしケン・ウィルバーに言わせると、人間だけではなく、他の生命体も、いわんや物質でさえ、あるいは社会体制や文化でさえ、同じ破壊と再生のプロセスをくり返しながら進化している、というのです。

このような「再生の前の破壊」の時期にある人は、「自分がやっていること、考えていることには間違いはないはずだ。自分には能力もあり気力もある。でもこの行き詰まり感は何だろう? 自分は今、生き直し、人生のリセットを強いられているのだろうか?」といった葛藤や齟齬の感覚を抱いているはずです。もっと言えば、「統合」が起きるためには、まさにこの葛藤や齟齬こそが最初のステップとして重要なのです。「葛藤」なければ「統合」もなし、ということです。
こうした葛藤や齟齬、気分の上がり下がりには、波やサイクルがあり、行ったり来たりをくり返しながら、人は成長へと向かうようです。
残念ながら「統合」に失敗し、「崩壊したまま再生せず」という場合もあるので、注意してください。それを喩えるなら、サナギがチョウになれず、サナギのまま崩壊してしまう、ということです。これが嵩じると、病理としてのアレルギーや中毒(つまり統合の失敗)の症状が現れたり、何らかの精神疾患にまで発展しかねません。

■「タテマエ化」していくことの弊害

このシリーズで紹介してきた動機づけに関する様々な心理学的実験は1970年代を中心に行われたようですが、その実験についてまとめているエドワード・L・デシ博士は、当時の学生たちの深刻な心理的背景について語っています。
博士が長年にわたって接してきた聡明で成績優秀な大学生たちの多くは、自分の本当の感情や信念を表現できない、と打ち明けたというのです。

『ほんとうの感情や信念を表現したなら、自分は身勝手な人間だと思ったり、罪悪感を感じたり、人から嫌われるのではないかと思ったりして悩む、と彼らは言う。彼らは恐れや羞恥心のために、ありのままの自分になることができないのである。
 このような学生は、人間はこうあるべきだという取り入れられた規範をもっており、それらの規範は、彼らの心の中にどっしりと錨を降ろしている。中には、すべての「~すべき」、「~であるべき」という考えから完全に独立したリアルな自分自身などという感覚は、まったく考えられないという学生もいた。』(「人を伸ばす力」より)

「人を伸ばす力」より

自由主義国家であるはずのアメリカでさえ、若者たちの多くは激しく統制され、抑鬱的な感覚に支配されていた、ということの表れでしょうか。これは、国の政治的体制が資本主義であろうと、共産主義であろうと、自由主義であろうと、独裁政権であろうと、それぞれの社会のルールや規範を次世代に伝えるときに、外発的動機づけ(統制)という方法を用いるか、それとも内発的動機づけ(自律性の支援)という方法を用いるかによって、その人の真の自己像(内発的自己感覚)が統合されるか、それとも希薄になっていくかが違ってくる、ということでもあります。この内発的な自己感覚の希薄さは、罪悪感、疎外感、不安や恐怖、羞恥心、つまり自分がこの世に存在することに対する根本的な疑念や不確実感を生み出すでしょう。
デシ博士も指摘していますが、このような状態が続くと、人はどんどん「タテマエ化」していきます。つまり、外部に見せている表面上の自分こそが、本来の自分であると勘違いし、内発的な自己像に接することをどんどん疎かにし、社会的ルールや規範を統合するのでなく、取り入れを促進させ、そうした社会化の在り方の方が他者から受け入れられやすい、と思うようになっていきます。
これは、いわば「イエスマン」(指示待ち人間)ばかりが増える結果になりますから、人を意のままにコントロールしたいと思う人間にとっては好都合かもしれません。ところがその一方で、服従者に比例して反抗者も増やすこととなり、その分調和や協調性は損なわれ、社会的発展性は望めず、せいぜいが現状維持で、イノベーションが極めて起きにくく、変化から取り残されていき、同時にアレルギーや中毒といった病理の発症率がどんどん増えていき、その分生産性は低下し、医療費はかさむ、というデフレスパイラルが続き、国力も低下していくでしょう。人が退行的(進化の反対)になれば、国の運営としても退行的になっていく、ということです。

■原理主義と自由主義

ここで、極端な例を出しておきましょう。
たとえばイスラム原理主義に立脚したテロリスト集団は、ジハードの原理を叩き込まれ、それをまったく疑わずに信じ込んで自爆テロへと突き進みます。こういうテロリストは、テロリズムというイデオロギーにおけるルールや規範に対して従順であるため、極めて自律的に振る舞う(命令されなくても自発的にテロを行なう)ということも起こってきます。
しかし、私たちから見れば「宗教的洗脳」と呼べるほど激しく統制された結果に見えるわけです。
一方、アメリカのような自由主義国家においても、若者たちが自律的であるという自己感覚を持てずにいるとしたら、「何でも自分の意思で自由に決め、自由に行動し、その結果に自分でしっかり責任を取れ」という方向へ統制されている、と言わざるを得ません。
たとえば、日本人がアメリカに行って、カルチャーショックを受けると言われる典型的な理由として、人に同調するのでなく、自分独自の考えをハッキリ主張することを強要される、ということをよく聞きます。これも、独立的であるということへの統制と受け取ることもできます。つまり、「人は自分独自の考えを主張すべき」あるいは「人はいつでも自由で自律的であるべき」という考えから完全に独立したリアルな自分自身などあり得ない、という感覚にとらわれるわけです。
イスラム原理主義に立脚したテロリスト集団と、自由主義国家であるはずのアメリカと、それぞれまったく違う主義主張への統制が働いている、と言えるでしょう。ただ、そうした統制への反応の仕方として、テロリスト集団の場合は、自分たちにとっての絶対的な敵であると叩き込まれた異教徒や西側の自由主義陣営をもっぱら攻撃する、というやり方をとり、アメリカの方は、本来は敵でも何でもないはずの相手や自分自身を傷つける(たとえば銃の無差別乱射事件からの犯人の自殺など)、という方向に走る、という違いになってくるのかもしれません。さて、日本はどうなのでしょう。

当時のアメリカの若者に向けて発せられた次のデシ博士の言葉は、実はテロリスト集団にもあてはまると、私は考えています。

「これらの取り入れられた規範に押しつぶされて、若者たちはタテマエの自分というもの(一種の偽りの自己)を外部に向かって提示するようになり、ほんとうの自分に接することをやめてしまっている。本来の自分とかけ離れたアイデンティティを身につけるほうが、また社会の諸側面を柔軟に統合するよりもそれらをかたくなに取り入れるほうが、他者から受け入れられやすいと彼らは思い込んでいるのである。
 他者から認めてもらおうと必死になって、取り入れを完全に受け入れたとき、彼らはほんとうに自分らしいと感じられることが何もなくなり、しかもそのことに気づきもしないのである。彼らの内発的な自己がもつ潜在的な力は失われ、真の自己はまったく発達せず、そして彼らはそれを直視することさえできないのである。
 何らかの社会的な単位(たとえば家族とか社会)の一員になることに伴う危険の一つは、ほんとうの自分というものをあきらめたり隠したりするように強制される場合があることである。彼らは、その社会に適合するために、自律性や真の自己を放棄させられたと感じるかもしれない。」(「人を伸ばす力」より)

「人を伸ばす力」より

真の自由とは何でしょう?
「あなたは何でも自由に考え、自由に表現し、自由に行動することが許されている」というのと、「あなたは何でも自由に考え、自由に表現し、自由に行動すべきだ」というのとでは、どちらが自由尊重的で、どちらが束縛的でしょうか?
あなたは、本当に自分の自律的な自由意思で社会のルールや規範を守っているでしょうか、それとも守るよう統制されているでしょうか?

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