芸術と狂気
芸術とはー。個人的で、排他的で、遊びである。
狂気を孕まない作品は芸術ではない。
狂気とは強烈なエゴだ。出会った売れるクリエイターは性格が悪いのに対し、売れない人は良い人だった。
バイタリティと自己愛。これが芸術の根。苦しみが深いほど咲く花は美しい。…が、それは克服してからだ。病んでる人の作品=芸術じゃない。
リアルで生々しい傷口だけじゃ、芸がない。確かに打ってくるが、病に甘んじてるなら希望がない。本人も作品も弱いままだ。
精神病を患ってる知人が、アウトサイダーアーティストらしい。本人は自覚してる。「病んでるから作れる」事を…。
そして、アウトサイダーアーティストと名乗ってる。何か、私は釈然としない。
彼女の作品を見るより、成功者の本を見た方がよっぽど元気になれる。
私は「ドン底」を見たいが、それ以上にそこから這い上がった「達成」を見たい。
自分が強く、よし!と、自己肯定出来た所を。
彼女も病を売りにするを、良し!としてるかもしれないが…。少なくとも私には彼女の作品は役立たなかった。
アウトサイダーアートとしては、好きな人を紹介すると長くなるから割愛する。日本じゃ裸の大将の山下清、同じ施設にいた沼祐一。
沼祐一は18歳で亡くなった。会話も出来ない知的障害児かつ、てんかんを患う。それもあってか、継母から強烈な虐待を受けた少年。
施設で保護されると、授業で貼り絵を学んだ。彼は初めて、他人と会話する手段「表現」を得る。
彼はもちろん、有名になった山下清にすら、芸術家としての意識はなかったらしい。
「障害者だから」と言えばそれまでだが、そこに芸術家としての神性を感じるのは私だけだろうか?
漫画家志望として長いが、無料で公開する事の方が、魂の軽快を感じてる。作者と読者の負担なき遊び。
岡本太郎みたく、作品を売らず、誰にでも公開する。街中のオブジェ。これこそ、1番作品を生かしてるように思う。
プロを諦めるのは逃げだろうか?いや、これも長くなる。この話は、またいずれー。
とは言え、芸術は苦しい時に生まれる。作らざる得ないから作るのだ。自分が生きるために。そうして作ったモノは良くも悪くも、濃密である。
作者が感じた絶望が深いほど、読者は作品を通して、唯一無二の世界を知る。絶望の深さと、それを解決した「何か」をー。
不幸、激情、絶望、病、錯乱、孤独、自己嫌悪。これが芸術のタネである。
それを解決、または自分を克服して、それらを平気で見つめ返す冷静であるとき、良い「表現」出来るんじゃないだろうか。
言葉で、絵画で、または音楽でー。
私は、どこでもフォロアーも少ない。実力不足だろう。そんで、一生孤独と貧困にあえぎ、「漫画家志望」のまま死ぬかもしれない。
今はネットで自己主張が出来るから、有難い。
もしネットがなかったら…。
駅前のティッシュ配りの如く、無差別に人に漫画を配りまくるだろう。私は人に作品を見てもらわないと、生きてけない。
そんな、漫画の為に生きて死ぬ自分は狂気じみている。でも、コレ以上に興奮する事はないから、仕方ないね☆
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