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予定調和の視線を批判する

まず、本題に入る前にハッキリさせておきたいことがある。この文章は私の写真に対する暫定的な考え方を記したものだ。さらに言えば、必ずしも人に読んでもらうために書いたものでは無い。では、なぜ公開するのかというと、今取り組んでいる作品と関連して、ある程度自分の思考と距離を保ちながら考えを整理するには、この方法が良いと思われるからだ。なので、修正・加筆は自分の中でその必要が生まれたら、その都度していくつもりである。


Punctum #1
Punctum #2
Punctum #3
Punctum #4
Punctum #5
Punctum #6
Punctum #7
Punctum #8

子供の眼
自分の中に強く焼き付いている子供の頃の記憶では、事物はむき出しの状態で存在していた。その記憶は私が世界に、現実に初めて遭遇した瞬間として深く私の意識に突き刺さっているようである。それは、「見る」という行為が予定調和に包まれてしまう以前の体験だ。それらの事物を目撃した当時、私はそれらを「〇〇だ」なんて、いちいち言葉に置き換える作業をしていなかったはずだ。いや、言葉には出来なかったのだ。それはまるで、それが刹那の出来事であったにしても、事物に没入するほど見入り、しかし同時に事物に見られているような感覚だった。

私の制作した作品は、細江英公氏の一枚の写真を出発点として、なんの考えもなしに作り始められた(だから、ここで一度整理する必要に迫られているわけだ)。初期段階で決まっていたことは「技」の価値を再確認するためにもアナログの手法に戻ることくらいだった。だが、自分でもなぜそうなったか分からないうちに、子供時代からの艶めかしい視覚的な体験の再現を試みようということを脳裏に浮かべながら制作をしていた。最終的には、事物が私に深い衝撃を残した特定の箇所や性質を、写真で近眼的に「凝視する」ことによって、この感覚を体現できないかを試みた。

しかし、一応出来上がった写真を鑑賞者の一人として見てみると、私の中のあの言葉に出来ない艶めかしさは再現できていないのだ。私の記憶に接続してくるものがあるのだが、あの突き刺してくる感覚には至たっていない。他の人に写真を見せても、「これはバナナだね」とか「これは乳首だね」とか、ひどい場合は「いいね」と言葉にされる始末だ。イメージは言葉から逃げられない。

中平卓馬氏はその著書「なぜ、植物図鑑か」のなかで「ひところ、映像が言葉に対立してそれ自体独立した意味をもつということが喧伝され、映像言語という単語がまことしやかに語られたことがある。だがそれは紛れもない誤りである。むしろ映像は言葉に影のようにつきまとい、その言葉を物質をもって裏打ちし、時として言葉を増幅させる (p135-136) 」と述べている。これからは、メディアと言葉の関係の中で、当時の思想としての言葉の失墜を嘆き。言葉には表しきれない現実を写真で捉えることによって、思想としての言葉に対して挑発的な資料を提出するという、PROVOKEのテーマにも連なる中平氏の姿勢が見て取れる。

私は中平氏のこの意見に同意する。言葉を通して世界を「見る」ことは、社会性を獲得してしまった人間には不可避なことである。さらに言えば、世界は言葉や意味による矮小化無しでは複雑すぎるのだと思う。生のままの世界では人間は世界を把握するどころか、そこで生きて行くことさえできないのではなかろうか。その意味で赤ん坊は万能の状態で生れ落ち、言葉を獲得していくにつれ世界の一部である自分もろとも、その可能性を矮小化させていき社会に順応していく。少し話が脱線したが、言葉によって世界を簡素化して、知覚することを蔑ろにせざる負えない人間の性を考えると、写真と言葉の不可分性には納得がいく。そういう意味で「言葉にならない世界との衝突の記憶」を写真で再現するのは無謀な試みだったのかもしれない。

人間が完全ではないように、言葉も完全ではない。それ故に、言葉は世界を完全には名指すことが出来ず、そこには常に意味の余白があるのではないか。私は、その余白の方にこそ本質的なものが隠れている気がするし、俄然関心がある。


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