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Anizine

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。
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#ロバートツルッパゲとの対話

小説を書く:Anizine(無料記事)

結論から言うと、小説を書き始めています。 解説でも説教でもなく、あの小さい方のヤツです。小説。 『ロバート・ツルッパゲとの対話』の中に「本を出したい」と頑張っている人はたくさんいると思うけど、出した人しか出ていない、という意味のことを書きました。ちゃんと読んでいないので細部はうろ覚えですけど。 ソーシャルメディアでよくわかったのは「人は願望を多く語る」ということです。ああなりたい、こうしたい、そればかり言う。言ってしまうと、もうやり終えた気になるんです。 映画が公開さ

ダサいと、田舎臭い:Anizine

先日、茂木健一郎さんのツイートに対して、「茂木さんは英国のカントリー文化の価値を現地で学んでいるはずなのに、すぐにダサいとか田舎臭いとか表面的なことを言っていて遺憾である」という長文のリプライがついていたのを読んだ。 すべてのことを「ダサいかダサくないか」で判断する俺としては、他人事ではないと感じていろいろ考えてみた。 『ロバート・ツルッパゲとの対話』にもそう書いたけど、俺は生きていく上で「ダサい」と言われないようにしたいと思っている。その言葉の定義から始める。 「あの

ケンタロウ、ソロライブやります:Anizine

自分が始める何かのサービスなりイベントを知ってもらうために欠かすことができないのは「ネット」だ。多くの人や企業は「ネットでも告知しておいた方がいいかもね」という考え方なんだけど、それは完全な間違い。 たとえばあなたが知らない街に行って、そこでレストランを探すときにはどうするか。ほとんど全員がネットで検索するはずだ。駅や泊まっているホテルから近いとか、予算とか料理のジャンルとか、あらゆる条件から探すことができる。できるというか、それが現代の最低条件。 ネットに有効な情報を掲

なぜバーガーキングなのか:Anizine

『ロバート・ツルッパゲとの対話』の後書きには、渋谷のセンター街・バーガーキングにて、と書いた。「なぜバーガーキングと書いたのか」にはちゃんとした理由がある。すべてのことには理由があるのだ。そうでないと、本を書くことはできない。 俺は東横線の沿線に生まれた。ターミナル駅としての渋谷は地方から遊びに来る人とは違って特別な場所ではなく「特別な場所」だった。初めてひとり暮らしを始めたのは中目黒、そこから10年間通っていた会社は銀座で、フリーになった仕事場は20年間変わらずに渋谷にい

ラジオに出たことで。

Fm yokohamaの「FUTURESCAPE」にゲスト出演して、本の紹介をしてもらった。今まで『ロバート・ツルッパゲとの対話』の存在を知らなかった人にも伝わるメディアというのはとてもありがたいことだ。 Twitterで検索してみると色々なことがわかる。ラジオは習慣のモノだから、毎週欠かさずに聴いている人にとって俺はかなりの異物だったはず。それに対しての反応がよくわかって面白かった。 情報は、接したことがないモノへの嫌悪を感じる人、新鮮さを感じる人を生む。この結果の推測

駅前で歌うとは:Anizine

ソーシャルメディアで書くときは、「それを基準に私を判断してもいい」という覚悟を持つことが必要だ。これは大前提。 好きなことを好きに書きたいだけだから、そんなこと言われたくない、というならLINEなどで個人のやりとりにとどめておけばいいし、クローズドなコミュニティを作ればいい。誰もが見える場所に自分が思ったことを書くのは、駅前でギターを持って歌うことと変わりがない。 「いい歌だね」と言われて自作CDを買ってもらえる幸運な出会いがあれば、「うるせえな、ヘタクソが」と罵られるこ

気づきと学びという人:Anizine(無料記事)

自分が5年前まで使っていなかったのに、今は使っている言葉があるとしたら、なぜそれを使っているかの説明ができないといけない。 たとえば2020年の今、あなたの周囲で「チョベリグ」と言っている人がいるだろうか。わざとではなくマジメに使っているとしたら、あなたは親切にこう言ってあげるだろう。 「課長、チョベリグって、もう誰も言ってないですよ」と。 言葉という道具を自分の知的な装備にすると決めた場合、それがナイフのような言葉なら、相手からは「ナイフを持っている人」だと認知される

あなたは本人ですか。:Anizine

『ロバート・ツルッパゲとの対話』を買ってくれた人がそのことをアップしてくれたらひとりずつリプライをしているんだけど、「著者本人からのお返事、ありがとうございます」と書かれることがある。 俺はいつから「本人」になったんだろうか。本人とは「その人であること」を強めた表現だけど、何となく面白いな。本人って言葉。 本人には「本を書く人」って意味が含まれているし、日本人から「日」がマイナスされている。本人というのは「責任者」って印象を持つこともある。たとえばフェラーリのあるクルマの

病的に健康:Anizine

金沢から帰るとき、グリーン車にするかグランクラスかで一瞬悩んだ。俺は病的と言えるくらい他人と距離が近いのが我慢できないので、飛行機でも新幹線でもできるだけ広い席を選ぶんだけど、金沢で延泊したし疲れてもいなかったから、「帰りはグリーン車にするか」と思った。でも、人が少なく隣に人が来ないという理由で、やはり行きと同じグランクラスにした。 思えば、俺が3年か5年に一度くらいしか風邪を引かず、アホみたいに不規則な生活をしながらアホみたいに健康なのは、アホみたいに人が多い場所に行かな

気持ちが逆転する:Anizine

機会があったら、この本を読んでみて欲しい。 もし『ロバート・ツルッパゲとの対話』を読んで気に入ってくれた人なら、たぶんこの本も気に入ると思う。「ああ、こういうことを考えていたのに、ロバートの本に書くのを忘れた」という文章がいくつも出てきた。 「従順で真面目な人がいい人だと言われ、強引で自己主張の激しいタイプが疎まれるのは、ごく最近のこと」というような話が出てきた。これはあまり言われていない発見だ。「超人思想」を持ち出すまでもなく、過去の偉人は世界を豪腕で切り拓く人だった。

「決定」ガウディを見てくれ。:Anizine

バルセロナに行きたいと思っている人に名乗りをあげてもらいましたが、かなり悩みました。こちらにはあまり情報がない。その人にどれほどの思い入れがあるかもわからないし、それを選別する資格も俺にはないからです。誰かを選ぶと、それ以外の誰かが落選することに心が耐えられなくなる。キツいのはここなんです。 今朝、「間違えたふりをして間違えるのが好きだ。今日も間違えていこう」と何気なくTwitterに書きました。誰に共感してもらわなくてもいい、こういうことを言うのが好きだからです。すると、

経済支援のルール。

俺と同じ、50歳を過ぎた同年代のスポーツ選手ってさ、チームの監督とかを通り越して、もう協会の役員とかやってるわけよ。 三浦知良さんみたいな現役への執着心はとても尊敬できるんだけど、レギュラーポジションはひとり入ればひとり締め出される。そこにベテランが居座るのは「若手の出場機会」を考えるとどうかって問題はあるよね。 年齢というのは実績のことでもある。20代から30年間仕事をして50歳を過ぎたときにすべきことは、もう自分がゴールを決めることじゃなくて、ピッチの外から物心両面で

運がいいだけ。:Anizine

俺は自分の能力を聞かれたら、だいたいこう答えている。運も実力のうちなんてことも言われるが、俺のは実力を遙かに超える運で、「過運」という新しい言葉を作ってもいいと思えるほどだ。 何気なく鼻歌気分で歩いてきたここまでの道には、実はたくさんの死に至る深い落とし穴があって、それが見事なまでに俺の歩幅とズレていただけのことだと思っている。 だからそこですんなりと死んでいて「ゲームオーバー」だった可能性もあるのだと思えば、今生きていることが過分な幸福だと感じられる。過幸だ。過運による

お金は捨てるモノだ:Anizine

「自己肯定感」なんていう言葉が流行っているようだけど、自分を肯定しすぎても否定しすぎてもダサいから、いいカンジにしとけ、で終わり。 「いや、もっとその人の気持ちになって、優しくしてくださいよ」という言い分もわかるけど、その慰めって関係ない他人から言われても何の効果もない。むしろ、「あなたは頑張ってる。きっと誰かが見てくれているよ」なんていう善意の言葉の方が、よっぽど冷酷だ。誰かって誰だよ。お前はどこで見ている。 自己肯定感とは違うけど、たとえば、「生活が苦しいんです」とリ