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ケンタロウ、ソロライブやります:Anizine

自分が始める何かのサービスなりイベントを知ってもらうために欠かすことができないのは「ネット」だ。多くの人や企業は「ネットでも告知しておいた方がいいかもね」という考え方なんだけど、それは完全な間違い。

たとえばあなたが知らない街に行って、そこでレストランを探すときにはどうするか。ほとんど全員がネットで検索するはずだ。駅や泊まっているホテルから近いとか、予算とか料理のジャンルとか、あらゆる条件から探すことができる。できるというか、それが現代の最低条件。

ネットに有効な情報を掲載していない店はどうなるかと言えば、悲しいことだけど、どれほど美味しい店であろうと「存在していない」ことになる。当たり前だ。検索しても出てこないんだから選ばれようがない。

これはネットに広告を出すというレベルの話ではなく、店主やその店が「ネットに住民票があるか」くらい根本的なことだ。

我々は何かをするときに自家中毒や過大評価に陥ることが多い。僕が美味しい店をやっているんだからみんな来てくれるはずだとか、友人が美味しいと言ってくれたから流行るはずだとか。それらの身勝手な根拠はまだ見ぬ客にとって何も効果がない。

聞いたこともないヤツが「ども。バスーンズのケンタロウです。ソロライブやります。ヨロシク」とか言うのを見ても、バスーンズもケンタロウもこっちは1ナノメートルも知らんがな。

知らない相手に自己紹介がちゃんとできること、イベントに来る人がそこで得られる気分は何か、それらの答えが見えない情報は情報ですらない。誰もが知っている有名なバンドでも丁寧にそれを提示しているのに、無名のケンタロウが田舎のライブハウスでソロライブをやろうがやるまいが、こっちにはどうでもいい。

すべての情報が同列に並ぶネットの世界ではそのイベントが唯一無二であることが第一の条件になる。似たようなものなら有名だったり流行っているものを選ぶんだから。自分でもそうするだろう、とわかっているはずなのに、ケンタロウだけはなぜか「俺が出るんだから客は来る」と思っている。

そして誰も来ない。星空の下のソーシャルディスタンスだ。

イベントをやります、と、自分が言いたいことだけを言う人がいる。これでは絶対に人は集まらない。つねに考えるべきなのは「自分だったらそのイベントに行くだろうか」という、地獄のように冷たい他人の視線を持つことだ。知り合いだけ来ればいいのなら全員にメールでもすればいいだろう。でも無関係な人にも興味を持って欲しいと思うならやり方は違う。

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それを「喫茶店理論」と呼んでいる。

喫茶店に行ったら尊敬する音楽評論家がいた。そして「来週、ケンタロウのライブがあるらしいよ」と言う。もうひとりのミュージシャン風の人が「え!だったら遠いけど俺も行かなくちゃ」と答える。隣の二人の話を小耳に挟み、あなたが初めてケンタロウの存在を知ったとしても興味を持つかもしれない。

この時、彼らの話はリコメンドする人としての価値があるからだけど、「宣伝のために機能した可能性」がある。ネットはマスとは違って一方的に情報を流して押しつけるものではない。ネットとは、巨大な喫茶店で同時に会話をしているようなものなのだ。

だから、宣伝下手の人の会話を聞いていると勿体ないと思う。「ケンタロウさんのライブ、楽しみにしています」という書き込みに「ありがとう」しか返事をしない。本人であるケンタロウがサボっている。その会話は誰かが必ず横で見ているのだ。ついでに言うと参加する他のミュージシャンも何も言わない。自分の言葉を添えず、シェアかRTだけしてる。

「ケイコさん、いつもライブに来てくれてありがとう。今回のライブではバスーンズの曲もやるし、新曲もやります。ゲストでトムソンズのバリー野沢も来てくれます。楽しいと思うのでよろしくね」とリプライがついていたらどうだろう。

バリー野沢もリプライを続ける。「僕もケンタロウとやるのを楽しみにしています。ライブ会場で会いましょう」

ケンタロウがこう書いていたら、彼はファンを大事にするミュージシャンであることや、バリー野沢のファンにも多くの情報が伝わるだろう。大事なのはそこなんである。

ロバート・ツルッパゲとの対話』を出版するにあたって、これらのことを念頭に置いてきた。

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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。