見出し画像

気づきと学びという人:Anizine(無料記事)

自分が5年前まで使っていなかったのに、今は使っている言葉があるとしたら、なぜそれを使っているかの説明ができないといけない。

たとえば2020年の今、あなたの周囲で「チョベリグ」と言っている人がいるだろうか。わざとではなくマジメに使っているとしたら、あなたは親切にこう言ってあげるだろう。

「課長、チョベリグって、もう誰も言ってないですよ」と。

言葉という道具を自分の知的な装備にすると決めた場合、それがナイフのような言葉なら、相手からは「ナイフを持っている人」だと認知されることになる。自分の武器庫にある武器はすべて自分の責任で管理しなくてはいけない。つまり、ナイフを振り回したあげく、いやこれがナイフだとは知らなかった、では済まされないのだ。

だから、安易に「チョベリグ」のようなものを手に入れてはならない。数年前に存在しなくて、数年後になくなってしまうような道具は、誰にとっても必要がなかったモノなのだ。

日頃から自分の武器庫の整理整頓ができている人は、あまり中身が変わらない。「チョベリグ」や「マジ卍」などと言わなくても済む他の言葉を持っているからで、それが言葉の豊かさだ。そう言うと、「言葉は生きている。新しい言葉が新しい時代とともに生まれることを否定するのか」などと言われる。

だったら、ずっとチョベリグって言ってろよ。流行っていると言って使って、今はもう死語だから古い、という消費には意味がない。それでしか言い表せない状況が存在しなかった、という証拠でもある。

画像1

流行っているモノを好む人は、言葉に限らず、他人の評価で動く。みんながやっていることを消費するのはラクだからだ。自分が数年前に使っていなかった言葉を、さも頭が良くなったように使いたがる人を見ると、「この人の武器庫には空間がたくさんあって、さらに、鍵がないんだな」と感じる。

ロバート・ツルッパゲとの対話』に書きたかったが抜けてしまった部分がある。「気づき」「学び」という言葉を使いたがるバカと、田舎っぽさの特徴とは、連結しているってことだ。この場合の「田舎っぽさ」が何をさしているかは本を読んでもらった人にはわかるので解説はしないけど、「自分が育った環境になかったモノ」を「発見した」と言いたがる人の頭の悪さだ。

そういう人にとっての「ユリイカ」という言葉が、「気づき」「学び」に集約されている。ことさら「学び」と連発する人は、
私は過去に学んでこなかった。私が育った環境にそれは存在しなかった、
という田舎っぽさの宣言だと知って欲しい。

ここから先は

1字

Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。