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博士の普通の愛情

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。
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#ワタナベアニ

3ポイント:博士の普通の愛情

数年会っていない友人からFacebookのメッセージが届いた。内容はなんということもないものだったが、ソーシャルメディアのアルゴリズムはやり取りした人の投稿が優先表示されるので、ずっと見ていなかった彼の日常が僕のウォールに頻繁にあらわれるようになった。SNSではフォローしている人の投稿が全部表示されていると思っている人がいるかもしれないが、そうではない。 コメントをしたりされたりしている人同士が上位に見えているのだ。だって、数千人もネット上の友人がいたらそのすべてを読むこと

牛丼作戦:博士の普通の愛情

井上課長、ともだちが、うちの会社の男性社員と不倫してるらしいんですよ。どう思います。彼女には彼氏がいるんですけど、ずるずるつきあってるんですって。で、その子はそろそろ別れたいから何と言えばいいのかなって相談されちゃって。 へえ。どこにでもありそうな話だね。 この前の金曜日もペニンシュラに泊まったらしいんですよ。不倫の彼って、それほどお金はないみたいなんですけど、張り切ってるからまあいいかって感じらしいです。 ペニンシュラ。そうか(課長は自分のことだと気づく)。その女の子

交換殺人:博士の普通の愛情

ホテルには6人の男女が呼ばれていたという。 あるメッセージが届き、僕はその誘いに乗ってここにやってきたのだ。メールのタイトルには「交換殺人」と書かれていて物騒だなと思ったが、それはただの比喩だ。 僕が勤めている会社の上司に最低の男がいる。「A」という部長はパワハラなんていう言葉では済まないほど我が物顔で社内を支配していた。ほんの少しでも彼に口答えをしたり、事を荒立てた社員は悲惨な扱いを受けるのを知っていたからか、上層部からは有能な男として評価されていた。 僕はネットへの

片方のマルジェラ:博士の普通の愛情

「靴が片方だけあったら、いりますか」 その頃、僕は左足首を骨折していて大げさなギプスをして松葉杖をついていたんだけど、カフェの女性店員からそう声をかけられて驚いた。いつもいる顔見知りの店員だが、今まで一度も話したことはない。 「私の友だちが原宿のスニーカーショップで働いてるんですけど、汚れてしまったとか、いたずらで持って行かれたという片方だけの靴がお店にあるみたいなんです」 なるほど、そういうことか。 「ああ、そういうことですか。でもどうしてお店から片方だけ持って行く

『夕食の朝食』後編:博士の普通の愛情

私は宇都宮の駅にいた。母が用事があるから帰ってこい、としつこく言うので仕方なくここに立っている。 生まれ育った街を純粋に愛している人が羨ましい。羨ましいのかな。意地の悪い自分は、本当はそう思っていないはずだ。何も変化のない居心地の良さとちょっとした窮屈さに肩まで浸かっている人々を、心のどこかで見下しているんだろうと思う。 東京で一人暮らしを始めてしばらくして、私は自分がそう思っていることを人から指摘された。相手は年下の女の子だった。 「カンナさんって、自分の真ん中のあた

白いグローブと、性:博士の普通の愛情

本来はパーソナルな「性についての話」は注意深くしなければならないと思っています。特にネットでは表現の過激さの垣根が低くなっているし、それゆえのトラブルも多いからです。 先日、あるコンテンツを作っている女性と話しました。 「『サブリミナルではあっても、女性はどこかで性を売り物にしている』って言われたの。どう思う」 ジェンダーの問題とは切り離して、男性の性は女性と比較してそれほど多くの需要がないことについて僕もずっと考えていました。 「『需要』の多い女性は、手っ取り早く性

ガソリンスタンドの男:博士の普通の愛情

もしかしたら結婚するのかもしれない、と思った女性がいた。20代の初めの頃だ。彼女は悪く言ってしまうと東京近郊の平凡な家庭で育ったミーハーで、部分的には苛立つことが多かった。何かと言えば、「それ、有名だよね」と言った。僕はそのたびに、「有名じゃないと価値がないの」と聞き返していたが、まずいことを言ったという顔もしない。 ミーハーというのは、自分の自信のなさの表れだよ、と言ったこともある。そのときはかなり頭に来ていたからひどいことを言った。僕が友人と一緒にいるカフェにたまたま彼

DAY, THREE, WEST:博士の普通の愛情

青山の国連大学の前で「ラウラ」に出会った。彼女に西麻布に行く道を聞かれたのだ。僕も六本木に向かう途中だったので一緒に歩こうと提案した。ブラジルから仕事で数ヶ月の出張に来ているというラウラは、少しだけ英語ができて、僕もたいして英語ができるわけじゃないから会話の理解度がちょうどよかった。 ラウラは青山通りから骨董通りに入るところにある標識をスマホで撮っていた。僕が何を撮っているか聞くと、「こうしておくと憶えるから」と言って、はにかんでいた。「DAY, THREE, WEST」と

恋愛の話:博士の普通の愛情

恋愛の話が苦手なのは、すべての人の症状が同じではないうえに、病気でもなく、建設的でもなく、刹那的だからだ。

『夕食の朝食』中編:博士の普通の愛情

前編 「一緒に暮らすようになって一年くらいした頃、ちょっと関係がギクシャクし始めたよね。俺が悪かったと気づいていることを書くよ。まず、那覇のこと」 ある夜、私が部屋に帰るとユウちゃんはバッグに着替えを詰めていた。 「どこかに行くの」 「うん」 「そう言われたら、普通は行き先を言わないかな」 「ああ、那覇」 「沖縄に行くんだ。一度でわかるように話して。効率が悪いから」 ユウちゃんの手が止まり、表情が変わったような気がした。 「俺たちの会話で大事なのは効率か」 「そうじ

『夕食の朝食』 前編:博士の普通の愛情

「思いついたことから書き始めるので、順番がおかしかったり記憶が間違っているかもしれない。でもそのパーツは全部本物で嘘はないと思うから最後まで読んで欲しい」 デリバリーピザのメニュー、水道料金の伝票、分譲マンションのチラシ、水道工事業者のぐにゃぐにゃするマグネット式ステッカーみたいなものに挟まって、彼からの手紙が届いていた。「この時代に手紙って」と思ったけど、封筒に貼ってあったのが私が買ったディズニーの切手だと気づいて、心臓の表面あたりに微弱な電流が走った。 脇に手紙やDM

タンデム:博士の普通の愛情

祖父の法事は11時に始まったが、兄がまだ来ないので父と母は苛立った顔で怒りをぶつけ合っている。読経中の住職に聞こえるんじゃないかとヒヤヒヤしたが、高齢で耳が遠いのが幸いした。 「あなたに似てあの子は遅刻するのが平気だから」 「俺がいつ平気な顔で遅刻したんだよ」 結局、法事が終わって予約していた中華料理店に移動したときに兄は申し訳なさそうな顔でやってきた。父は親戚の手前、大声で兄を叱った。 「お前は長男だし、おじいちゃんにさんざん世話になっておきながら、こんな大事な日にす

浴衣の志摩子:博士の普通の愛情

犯人が捕まらない犯罪というのがある。僕は25歳の頃にしでかした愚かな過ちを「なかったこと」にできた幸運なひとりだ。就職もせず、ときどきアルバイトをすることはあったがほとんど毎日パチスロばかりしていた。 金がなくなったので銀行のATMでなけなしの数千円をおろしに行ったとき、となりで80代くらいのおばあさんが操作に困っているのに気づいた。助けを求めるような目でこちらを見るので、画面のそこを押すんですよ、と教えた。 「ありがとう。助かったわ」 おばあさんは50万円を銀行の封筒

カエデとメイくん:博士の普通の愛情

「じゃあ、初めてちゃんとつきあった人の話をして」 なぜ人は夜中に話すことがなくなると恋愛の話か怪談をするのだろう。僕らは数人で伊豆にある友人の別荘に泊まっていた。深夜3時くらいまでベッドに寝転がって無駄話をしていたが、開け放した窓からは波の音が聞こえ、潮の香りがする湿った風が届く。夜中に聞くと、波というのは意外と大きな音がするのだなと思った。 僕の順番が来たので「カエデ」との思い出を話すことにした。20代の中頃、僕らふたりは有栖川公園近くのワンルームに暮らしていた。ワンル