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『夕食の朝食』 前編:博士の普通の愛情

「思いついたことから書き始めるので、順番がおかしかったり記憶が間違っているかもしれない。でもそのパーツは全部本物で嘘はないと思うから最後まで読んで欲しい」

デリバリーピザのメニュー、水道料金の伝票、分譲マンションのチラシ、水道工事業者のぐにゃぐにゃするマグネット式ステッカーみたいなものに挟まって、彼からの手紙が届いていた。「この時代に手紙って」と思ったけど、封筒に貼ってあったのが私が買ったディズニーの切手だと気づいて、心臓の表面あたりに微弱な電流が走った。

脇に手紙やDMを挟み、コンビニの袋とトートバッグとリュックを重ねて持っている。部屋のカギをトートバッグの中から取り出そうとするが、六つあるどの取っ手をどちらの手に持ち変えればいいのかがわからなくなる。綾取りか知恵の輪のようだ。部屋に入るとタイマーでエアコンが作動している。七月中旬だがそこには除湿されて快適な立方体の空気があり、私の汗ばんだカラダだけがこの部屋の中で唯一、清潔ではないもののように思えた。

手紙が便箋ではなくA4のコピー用紙に書かれているのが彼らしいと感じた。変な箇条書きで、私たちが出会ってから別れるまでのことが何枚にもわたって細かく書かれていた。左上にふられた番号を何度かぐしゃぐしゃと書き直した跡があるのは、出来事の順番を間違えているのに気づいて入れ替えたのだと思う。

「僕らが出会ったのは渋谷のセンター街、駅の方から入って一つ目の角にあったArby'sだった」という小説じみた書き出しに笑ってしまった。それは私も当事者だから知っているに決まってる。

あれは、憶えているのではなく、忘れるはずがない冬の夜だった。

私は代官山にある「リエ」という友だちの部屋に行くはずだった。週末は仕事の帰りに彼女の部屋に行くのが恒例だったが、あの日はいつまで経っても彼女が帰ってこなかったのでずっとマンションの前で待っていた。若い子に、「当時は携帯電話がなかったから最初に決めてある約束の内容を途中で変える方法がなかったのよ。だから『東京ラブストーリー』でリカとカンチは何度も入れ違いになったわけ」と言ってから、彼らが当時のドラマを知るはずがないと気づき、ウンザリする。

エントランスにある郵便ポストに、「先にArby'sに行ってるね」とメモを残し、八幡通りから並木橋へ向かう。途中にある渋谷清掃工場の巨大な煙突は必ず立ち止まって見上げることにしていた。毎回眺めても何も変わる部分なんてないんだけど、人工的なガジュマルみたいで、「今日も生えてるな」と思う。並木橋から明治通りに出てセンター街まで、それほど寒くなかったのでゆっくりと歩いた。

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東十条の古いアパートに住んでいた私は、夜遊びの行き帰りが面倒なので金曜は新橋の会社からリエの部屋に行くことにしていた。朝までふたりで遊んで土曜の夕方頃に自分のアパートに戻る。リエとはセンター街で知り合った。彼女は六本木の外れにある「趣味のよくないアパレルブランド」で働いていたが、いつも私より早く帰っていたので部屋に入れなかったのはその夜が初めてだった。

パストラミサンドを食べながらArby'sの二階の席から下を歩いている人々を見下ろす。どこにこれだけの人が隠れていたんだろうと思うほどたくさんの人がうろうろ歩いている。どこかからどこかに向かう目的がある人はほとんどいない。籠に入れられた神経質なハムスターのように、ただセンター街を何度も往復しているのだ。もちろん私とリエも下に降りればほかのハムスターたちと一緒だった。何をするでもなくクラブに行ったりハンバーガーを食べたり、ナンパしてくる男を無視し続けて朝を迎える。

ある夜、地元である宇都宮の同級生と東横線の中で偶然会ったことがある。

「カンナ、久しぶりだね。こっちで仕事してるんでしょ。私もそう」

目の前で懐かしそうにニコニコしている彼女は友人ではなく、ただの同級生。正直に言ってしまえば本当は東京で会いたくない「嫌いな集団のうちのひとり」だった。彼女たちはいつも教室の隅にかたまって女子の悪口か男子の噂話を言い合う。その存在自体がお洒落じゃないから苦手だった。週末で渋谷からリエの部屋に行くところだったので、私はもう降りると伝える。

「代官山で降りるの」
「うん。コンビニに寄って帰るだけなんだけどね」
「へえ。カンナは代官山なんだ」

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。