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ガソリンスタンドの男:博士の普通の愛情

もしかしたら結婚するのかもしれない、と思った女性がいた。20代の初めの頃だ。彼女は悪く言ってしまうと東京近郊の平凡な家庭で育ったミーハーで、部分的には苛立つことが多かった。何かと言えば、「それ、有名だよね」と言った。僕はそのたびに、「有名じゃないと価値がないの」と聞き返していたが、まずいことを言ったという顔もしない。

ミーハーというのは、自分の自信のなさの表れだよ、と言ったこともある。そのときはかなり頭に来ていたからひどいことを言った。僕が友人と一緒にいるカフェにたまたま彼女が来た。友人を見た彼女は、「テレビで見たことある」といきなり騒いだ。違うだろう。まずは挨拶だ。

僕はそのミーハーぶりには慣れていたんだけど、友人の前でそれをやられたらたまらない。その頃にはもう、この人と一生一緒にいるのは不可能だろうなと思い始めていたのかもしれない。友人はとてもいいやつだったから、「テレビなんてあまり出てないですよ」と言ってくれたが、彼に気をつかわせたことに僕は腹が立った。

互いの意識というのは口に出さなくても自然に伝わるもので、彼女はある年のクリスマス直前に別れようと言ってきた。僕は自分から言い出さなくて済んで助かったと思ったし、仕方ないよなとも思った。最初の頃の楽しかった日々はまったく思い出せないくらい、顔を合わせると口喧嘩をしていたからだ。

彼女はいつも年上の僕を恐れていたのだと言った。そんなことは一度も聞いたことがないけど、我慢していたんだろうと思う。あのときも、あのときも、と具体例を出し始め、僕はうんざりした。このタイミングで洗いざらい言わなくていいよ。そのどれも思い当たるところがあって、すべてがふたりの埋められない溝に関することだった。僕が苛立っていたことがきちんと伝わっていたことに妙な納得もあった。

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彼女は僕がマスコミ関係の会社に就職すると、加速度的にミーハー度が増した。誰と会ったことがあるかとか、今度誰かと会うときは教えろとか、僕が一番嫌いな種類の話ばかりした。彼女は大きな文具メーカーで商品開発の仕事をしていたのだが、僕は嫌味たっぷりに、「じゃあ今度新しいホッチキスが出るときは教えて、あと、文房具屋さんに会うときは教えて」と言った。

「私の仕事、バカにしてるんでしょ」
「そんなことないよ」
「じゃあなんでそんなこと言うのよ」
「僕が言われていることがどれだけ嫌かを知ってもらうためだよ」

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。