見出し画像

片方のマルジェラ:博士の普通の愛情

「靴が片方だけあったら、いりますか」

その頃、僕は左足首を骨折していて大げさなギプスをして松葉杖をついていたんだけど、カフェの女性店員からそう声をかけられて驚いた。いつもいる顔見知りの店員だが、今まで一度も話したことはない。

「私の友だちが原宿のスニーカーショップで働いてるんですけど、汚れてしまったとか、いたずらで持って行かれたという片方だけの靴がお店にあるみたいなんです」

なるほど、そういうことか。

「ああ、そういうことですか。でもどうしてお店から片方だけ持って行く人がいるんでしょうね」
「片方だけ棚に展示しておけば盗んでも履けないから万引き防止のためにそうしているらしいんですけど、たまになぜか片方持って行く人がいて、あ、そうか、たぶん別の店でもう片方を探すのかもしれないですね」

笑った顔が魅力的だった。彼女は忙しそうだが手際よくコーヒーを入れたりしながらカウンターに座っている僕と話す。

「てことは、すべての靴屋さんがたとえば右の方だけディスプレイする、と決めればいたずらは減りそうですね。日本中どこにいっても左は見つからないわけだから」
「お客さん、頭いいですね。いいアイデアです」

画像1

たとえ盗まれなくても店頭で長い間ディスプレイされた靴は日に灼けてしまい、箱にしまわれていた片方と微妙に色が揃わなくなることもあるらしい。僕は今までに一度も考えたことがなかった「靴屋のディスプレイ」についての会話を楽しんだ。もちろん彼女と話していたからだけど。

「お客さん、サイズはいくつですか」
「28センチです」
「大きいですね。バスケット選手みたい。友だちに聞いてみます」

数日後に店に行くと客が誰もいなかった。彼女はカウンターの外側に出てきて笑顔を見せる。後ろ手に何かを持っているのがわかる。

「リーボックの人気モデルがありました。28センチです」

卒業証書のように僕の目の前に差し出された箱を受け取る。

「本当にもらっていいんですか」
「もちろんです」

ここから先は

1,565字
恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。