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カエデとメイくん:博士の普通の愛情

「じゃあ、初めてちゃんとつきあった人の話をして」

なぜ人は夜中に話すことがなくなると恋愛の話か怪談をするのだろう。僕らは数人で伊豆にある友人の別荘に泊まっていた。深夜3時くらいまでベッドに寝転がって無駄話をしていたが、開け放した窓からは波の音が聞こえ、潮の香りがする湿った風が届く。夜中に聞くと、波というのは意外と大きな音がするのだなと思った。

僕の順番が来たので「カエデ」との思い出を話すことにした。20代の中頃、僕らふたりは有栖川公園近くのワンルームに暮らしていた。ワンルームとは言っても60平米以上あったのでまあまあ広かった。その部屋はカエデの父親が買ったもので、ある日から僕が転がり込んだのだ。

「ねえ、悪いからそろそろ僕も家賃を払うよ」
「気にしないで。ここはパパが買った部屋だからあたしも払ってないし」
「でもそれだとヒモっぽく見えるだろ」
「そっか。気になるんだったら10万円だけ払ってくれればいいよ」
「それは無理。高すぎる」
「結局払えないじゃん。ヒモじゃん」

スーパーに買い物に行った帰り、自動販売機で買ったドクターペッパーをふたりで交互に飲みながら、不動産屋の店頭に貼られた賃貸物件の情報を眺めた。確かに60平米の部屋の相場は25万円くらいだった。

「ほら、そうじゃん」
「確かにそうだな。うちの田舎なら一戸建ての豪邸が借りられるな」
「メイくんの田舎は、本当にド田舎だもんね」
「自分で言うのはいいんだけど、他人に言われると傷つく」
「ごめん。ドじゃなくて普通の田舎」
「たいして変わらないよ」

カエデは事務職として銀座の中堅広告代理店に勤めていた。就職が決まって実家を出るとき、広尾に部屋を買ってもらったのだという。カエデの両親は世田谷の大きな家に住んでいるからもちろんそこから通うことだってできたんだろうけど、ひとり暮らしをしてみたいと言ったらしい。日比谷線で銀座まで乗り換えなしで通勤したいという彼女の要望を聞いて、父親は広尾の駅に近い部屋を買った。しかし、面倒くさがりのカエデはときどき会社までタクシーで行っていることを僕は知っていた。

僕は高校生の時からバイクが好きで、本当はレーサーになりたかった。あるイタリア人レーサーに憧れていたので、コインロッカーなどでは必ず「46」という番号が空いていないかを探したほどだ。17歳の時に知人のレースチームにメカニック見習いとして鈴鹿に手伝いに行ったんだけど、そこで見た本物のスピードと、目の前で起きた激しいクラッシュを見て、僕はレーサーにはなれないと諦めた。そのときに知り合った関係者がいて、彼が経営する自動車とバイクの整備工場で僕は働いている。

社長は、カナダにも会社を持っている。トロントに留学していた長男が日本に戻って来たくないというので日本のバイクを専門に扱うバイクショップを作ったのだ。社長が視察に行くときに僕も同行する機会があった。僕にとっては初めての海外旅行だった。向こうで僕がするべき仕事は何もなかったし、視察というのは名ばかりで外国に行ったことがない僕のことを考えて社長が誘ってくれたのだと思う。

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まず日本から香港に行った。アジアを統括するディーラーがあるそうでそこに寄り、ネイザン・ロードに2泊した。目がチカチカする異国の風景を初めて味わう。トロントのピアソン空港には長男が迎えに来てくれていて、オフィスに向かう。スティールス・アヴェニュー・ウェストという通り沿いにあるショップ兼オフィスには20分ほどで着いたが、見渡す限り真っ直ぐな道路を初めて見た。社長に「アメリカみたいですね」と言って笑われてしまった。

オフィスのすぐ近くに「Tim Hortons」というファミレスとファーストフードの中間のような店があり、ランチのとき僕はそこに行ってみたいと言った。長男は、「あんなのは人間の食うメシじゃねえよ」と言ったのだが、何度も映画で観たことがある、いかにも地元の人が行くような道路沿いの店に入ってみたかったのだ。夜はなんだかよくわからないオリエンタルな高級レストランに連れて行かれたのだが、僕にはそれもあまり人間の食う飯ではないような気がした。帰るときに空港の免税店で、誰かにあげようと思ってメイプルシロップを買った。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。