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ミッシングリンクを求めて ―失われた言葉への旅―

言語と文献

 古代・中世の言語を分析する際、特に大きな問題となるのが資料の制約である。
 直接的な音声・会話記録が残っていないため、現代語とは違ったアプローチ(文献の重視や内的再建など)が欠かせない。
 だがさらに意識すべきなのは「人々が使った言葉のうち、文献として残っているのはごく一部でしかない」という事実だろう。

 現代日本人は幼少期より読み書きを習い、頻繁に文字を意識して育つ。
 しかし人は文字を持つ前から広く言葉を使ってきた。

 そして文字を持たなかったり、文字自体は存在しても識字層や使用機会が限られていたりした時代・地域・社会は珍しくない。
 識字層でさえ、使った言葉すべてを文献に残しているわけではなく、公的記録や奉献碑文に比べて口語の情報は残りにくい。

 これは恐竜などの古生物学の課題と似ているところがある。
 生物のうち化石として残存する個体はごく一部にすぎない。
 全身骨格が見つかっていない種も多い。
 皮膚や筋肉は失われやすくさらに資料が限られる。

 言語資料の制約の事情もそういったことから連想すればわかりやすいかもしれない。

 今回はそんな制約の問題を出発点に、記録を越えて遥か遠くまで広がる言語世界の話をしていきたい。


言語を生み出す土壌

 忘れられがちなことだが、「文字」の歴史や普及範囲は「言語」そのものに比べて狭く浅い。

 人類の祖先が音声言語を使うようになった年代は定かではないが、早い推定では今から約10万年前頃のこととされる。
 これは主に口腔の構造に注目した分析である。
 現生人類のような音声言語を使うには何種類もの音を発音し分ける必要があり、そのためには音の共鳴に適した顎の構造や垂直な喉が必要になる。
 そして化石人骨を分析するに、そのような体の構造ができあがったのは約10万年前頃なのである(佐久間2013, pp.38-41など)。

 ただしこれは「体の構造」が現生人類の音声言語の使用条件を満たした時期の話なので、実際の発生はもっと遅かった可能性もある。
 音声言語の起源については困難な問題が多い。

 言うまでもなく人類の唇・歯・舌・顎・喉・鼻腔・肺などの音声器官は元々音声言語のために存在したのではなく、二次的にそれを兼ねるようになったものである(城生・福盛・斎藤2011, p.3)。
 よって言語発生までに時代差があったという想定も検討の価値があるところだろう。

 他に音声言語に比べて使用者は少ないが、手話のような視覚言語の発生についても研究が待たれるところである。
 言語の定義については音声・視覚を問わず後述の二重分節性の存在が重要とされる。
 (化石生成学と文献学の類似性については堀田2017-03-01-1を参照)。

 ちなみに個別言語の音素数(意味の区別に使われる音の種類)は一般的には母音と子音を合わせておよそ20~35種類であり、一般的に日本語の音素数は23種ほど、英語は44種程度とカウントされている(佐久間2013, p.47)。


文字の新しさ

 しかしそれでも文字が言語より遥かに新しく、使用範囲も限定的だったことについては論を待たない。

 年代の推定には多少の幅があるが、古代エジプトやメソポタミアで文字が誕生したのは今から約5300〜5100年前頃のことといわれる。
 漢字の起源となる文字の初出は約3500年前頃、ギリシャ文字の出現は前8世紀頃(より古い前1500-前1200世紀頃のミュケーナイギリシャ語はまったく別の線文字Bで記されている)のこととされる。
 現代人から見れば大昔だが、約10万年前に比べれば最近であり、数千年前といえばすでに人類は(一部の島嶼などを除く)世界中に進出していたので、文字の誕生直前に音声言語の獲得が起きたというシナリオにもかなりの無理がある。
 言語の歴史が文字のそれより遥かに長いことは確実といってよい。
 (堀田2009-6/8-1参照)。

 文字の普及の有無や速度は時代・地域・社会によって差が大きく、歴史全体として文字を使っていなかったか、ごく限定的な使用機会しか持たなかった層が多いことはよく知られている(文献の散逸という厄介な問題もある)。

 そして文字を使わない人々であっても(失語症などの場合を除き)言語を使ってきたわけなので、そういった点からも「文字」という概念の新しさが窺えるのである。
 (これは言語の分析に際して文字より音が基本とされる根拠でもある)。

 しかし当たり前のことだが、文字記録があるかないかによって言語の歴史的分析の難易度が大きく変わってくることも否定できない。

 言語学では系統比較、内的再建、類型論的考察(言語の音声変化の自然さなどの観点を活かした分析)によって文献が存在しない時代の"祖語"を再建する試みが行われており、その有効性は後に実例からも証明されている。
 だが伝統的な比較言語学の手法で遡れる年代は条件に恵まれている語族であっても数千年程度であり、文字記録が古くて豊富な方がより古くからの言語状態を分析しやすいことに変わりはないからである。


記録年代の差

 すでに使われなくなったものを含め、世界には数千以上の言語があり、みなそれぞれの歴史を持っている。
 しかし言語の直接記録の出現年代は語族や言語ごとに大きな開きがある。

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