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私と母の戦闘日記

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1話から全てまとまっています。まだお読みで無い方は、ぜひ、こちらから!
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#1私と母の戦闘日記

私は、2017年の春、大学院に進学した。大学も大学院も実家を離れ、一人暮らしをし、親から離れてもうすぐ6年目になろうとしている。 私の家は、両親と弟の4人家族だ。小さい頃から習い事や、中高一貫の私立に通い、たくさんの協力を家族にしてもらいながら、自由にやりたいように、幼少期から高校まで過ごした。 我が家の教訓は、教育にお金を注ぐこと。モノを残してあげることができないから、教育や目に見えないものにお金を注ぐのだと、言われながら育ってきた。 私は”私なりに”その言葉を受け止

#2 私と母の戦闘日記

2017年の冬、私は、金銭的な面から、そして自分の将来を考え直し、就職活動をすることを決意した。 博士まで進むと思っている母に少しは伝えておかないといけないなと感じ、軽く伝えてみたのだ。 「今後だけど、就活もしてみようと思ってる。」 『院にそのまま残るんじゃないの?』 「その方向性も考えてるけど、両方してみてから考えたい。」 『そう、分かった。。。』 浮かない声を聞きながら、さらっと電話を切ったことを覚えている。 うまくやらないと親は認めてくれないのではないか。

#3 私と母の戦闘日記

母に就活を宣言し、私は就活を中心に生活を送った。 研究室も行きながらの就活は、なかなか厳しく、両親に自分の状況を伝えるどころではなかった。 ただ忙しさと同時に楽しさもあり、楽しいんだ、という面だけを母には見せていた。 ・・・ 『就活どう?』 「今日はね、東京で説明会に行ってくるよー。」 『そうなの。どんな会社なの?』 「◯◯系の会社の説明会だよ。」 ・・・ 親の好みの業界くらいは、察していた。だからこそ、そこまで反感を買わないような業界を伝えつつも、私は自分

#4 私と母の戦闘日記

2018年になってからも就活は続いていた。業界に絞らず、かつ研究に支障の出ないように面接の融通の利きそうな、ベンチャー企業を受けていた。インターンに行ったり、エントリーシートを書いたりと、それなりに就活をしていた。 そうこうしているうちに、あまり母とは連絡をとっていなかった。 母も仕事をしていたので、忙しくしていたのだろう。たまにかかってくる電話や、ラインにも軽く返事をするだけだった。 (きっと色々言われる。) その確信だけは、ずっと頭から離れなかったからだ。だからこ

#5 私と母の戦闘日記

母の許しそうでかつ自分も興味を持てそうな業界を受ける をモットーに私は就活を進めた。しかし、それは、自分の本心を抑制している状態であり、その状態で選考を進むことはもはや、ストレスへと変わっていった。そのような状況では、企業にも失礼だと感じ、考え直さなければいけないと思うようになった。 そして私は、自分の受けたい企業だけを受けていこう、と決意した。 そこからの就活は、苦しくもとても充実していた。自分という人間を掘り下げていくことは、確実に今後の人生に役立つだろうと、どこか

#6 私と母の戦闘日記

就活を終えてからの私は、研究にのめり込んでいった。今しかできないことをしたい、と恵まれた環境に感謝しながら充実した日々を送っていた。 この日々を送る中で私は、両親にとても感謝した。お金をかけてまで、この環境に進むことを許してくれたこと、また、認めてくれたこと。やっと親が認めてくれるような自分になれる気がして、必死に頑張っていた。 しばらくして6月の頭に私は就活を終えたことを母親に伝えたのだ。 「希望の企業に内定もらえたから、その企業に行こうと思う。」 『そう、どんな会

#7 私と母の戦闘日記

私は、就活を終えたことを父に電話で伝えた。 「就活終わりました。◯◯系の会社に行きます。そこで〜〜といった業務を行います。」 『そうか。なんてところなんだ?』 「◯◯◯って会社だよ。」 『・・・おー、そうか。へー。どうして大学院の内容と違うところにしたんだ?なんで、この会社なんだ?』 「対応がよかったから。色んな仕事を見て見たいと思って。」 『・・・そうか。まあ、色んな世界を見ることは大事だもんな。就職先決まってよかったな。おめでとう。』 「ありがとうございます

#8 私と母の戦闘日記

父に伝えた後、数日は、平和な日々が続いた。 私が就活をしていく中で、重要視していた点が2点あった。 1点目は、人の多様性を認められる企業(またはその考え方が企業理念として組み込まれているか=色んな考え方をする人たちの集まり) 2点目は、変化することを求められる企業であるか(=成長性)、 であった。他にも重視している点はあったが、私にとっては重要なポイントはこの2点であった。なぜなら、私が自由に生きられると感じる世界観だったからだ。 母と話していたり、父と話していると

#9 私と母の戦闘日記

それから、両親からの連絡はほとんどなかった。 その間に内定者懇親会があったり、今後の流れについての面談があったりと、就職先との連絡も取りつつ、来年から働くのか、という感覚が少しずつ出てきていた。研究もしつつ、就職先とのイベントもこなしつつの毎日はとても充実し、研究面では、もがきながら必死に取り組んでいた。 そんな中、母から連絡がきたのだ。ラインで長い文面が送られてきた。 「お父さんとも話したけど、何であの会社か分からない。」 「他にも、いい会社はあると思うから、就活し

#10 私と母の戦闘日記

毎日のように長文ラインを続ける日々。 「”あんな会社”はあなたには”合ってない”」 あんな会社ってなに?合ってないって、どういう意味で言ってるの?根拠は? 「私達はただ否定してるんじゃなくて、あなたのことが”よくわかってるから”、あの会社にいたら”だめになる”と言っているの!」 あなたのことがよく分かってる?本当に?だめになるってどういうこと? 私にとって家族は、私の存在を受け入れてくれる場所ではないと、どこかで思っていた。褒めてくれるときもあり、嬉しく思っていた時

#11 私と母の戦闘日記

中学の頃の私は、とても荒れていた。学校でも友人にも反抗的で、友人を傷つける言葉をたくさん放ってきたと思っている。 人を傷つけたことに間違いはなく、反省すべきことである。同時に、今思えば、そこまでになったのは家庭での反動だったのかもしれないと思う時さえもあった。なぜなら、家族に傷つけられていたと思っているからだ。 私は、その頃、家族に会いたくなかった。家にいないことが多く、家にいても自室にこもっていた。 母と話す度に喧嘩し、喧嘩するたびに、友人を悪く言われることも多々あっ

#12 私と母の戦闘日記

私は、中学生の時と同じ危機感を感じていた。 再就活をし直すことを、ずっと言い続けてくる家族に、私はどんどん耐えられなくなっていた。 家族とのこんな内容を友人に話すのも嫌だったが、それ以上に、アウトプットしないと自分がダメになる気がして、友人にも相談するようになった。 友人たちからは、気にしなくていいのでは?就活し直したけど、落ちてしまった、と言えばいいのでは?そういうアドバイスをもらっていた。 実際に就活をしていないけれど、親には「就活をしたけどどこにも受からなかった

#13 私と母の戦闘日記

母は、1つの言葉を1つの意味でしか解釈できない人であった。 だから、やり取りはずっと続く。 そのやり取りは、言葉が変わっているだけで、実際は同じことを永遠と繰り返していた。私としては無駄な時間と労力に思えた。母が、内容が変わっていないことを理解していたのかは不明だが、私は次第になんでこんな人が母親なのだ、と失望していった。 お腹を痛めて、辛い思いをして産んでくれた母親に、「失望」など、あり得ない事である、と分かっていても、その思いは拭えなかった。 母だけであれば、まだ

#14 私と母の戦闘日記

就活したと、嘘をついた一件があってから、母は私を信用しなくなった。 就活について話から、就活について調べたようで、ベンチャーそのものについても批判するようになっていった。 『そもそも、経団連に入っている企業受けてないじゃない!』 そんなことは関係ないのに・・・。 とは言っても、受けてないことは事実である。 しかし、自分の就活のスタイルと性格性を考慮した上で選んでいたのだ。 私はそう思ったが、『逃げてるだけじゃない!』など言いたいことばかり、言われていた。相変わらず