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26歳で脳腫瘍発見。2度の手術と放射線治療をしました。あの時の出来事、感じたこと今思う…

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26歳で脳腫瘍発見。2度の手術と放射線治療をしました。あの時の出来事、感じたこと今思うことや、これからの生き方、好きなもの、考え方など思うままに記録。余生が始まる30歳を機に、大好きな犬とのスローライフへ一歩を踏みだしました。

最近の記事

なんで涙が出たんだろう

私が好きな作家さんの本を、弟が持っていたので借りた。 読んだことはあったけど、何年も、下手したら10年以上も前。内容はなんとなく覚えていたし、当時自分の中でざわついた場面は覚えていた。 やっぱり面白くて、そして、多分前は泣かなかったところで泣いた。 私は本でも漫画でもアニメでも泣く人なのだけれども、無意識にこらえてしまうのでいつも顔に力が入る。食いしばる癖に加えて、目元にも力が入る。 でもたまに、気持ち的にはすごくぎゅうっとなっているのに体には全然力が入ることなく泣く

    • 知った気になってもいいのかな

      自分が失敗して、初めて人の痛みに気づくことがある。 気づいたというより、少しだけ想像できるようになった、という方が正しいかもしれない。この痛みはもしかしたら、あの人が感じた痛みなのではないか。私の言葉で、あの人が感じた感情なんじゃないか。 同じものを見ても、同じものことを経験しても、まったく同じ感情を抱く人間はいない。だから推測でわかった気になるのはちょっと横暴な気がするけど、でも想像してしまった。 こういうことが、つらいのだろうな。だから苦しかったのだろうな。自分の痛

      • 「もしもタイムマシンがあったら」の感想

        長い文章がなかなか書けない。でも書くことはやめたくないので、最近は「書く習慣」というアプリで短い文章を書いている。 毎日お題を出してくれるので、そのお題をもとに文章を書く。もちろんお題と関係がなくてもいい。どんなに短くてもいいから、今はそれが書きやすい。 今日の(正確には昨日の夜の)お題は「もしもタイムマシンがあったら」だった。自分の中になんとなく考え方があるお題だったから書きやすかった。書いた後に、ほかの人の文章を読んで、いろいろ考えた。 20~30くらいしか読んでな

        • のめりこむ力

          一言で言ってしまえば、私はいわゆる「オタク気質」なのだと思う。 日常生活の使用エネルギーは少ない方だし、仕事に至ってはどれだけ省エネできるか常に考えているような人間だけれども、好きだと思ったときの加速とエネルギー消費は自分でもちょっと引くくらいにすごい。 平気で、寝る間を惜しむ。何度でも繰り返す。熱量は時間が経てば落ち着いてくるけれども、時間をおいて再燃することも多々ある。 とにかくのめりこんでしまうのだ。ありったけのエネルギーを想像力、集中力に変換して、文字通り何時間

        なんで涙が出たんだろう

          「ずっと」はないから輝くんだろうな

          予想できないものが怖い。目に見えるものにしても、見えないものにしても。見えるものは虫とか、子供とか。見えないものは、時間とか。 「終わりが予想できない」というのは私にとってかなり大きな恐怖だ。たとえ同じ時間を過ごしたとしても、終わりがわかっているとのいないのでは使うエネルギーが全然違う。終わる時間にしても、終わり方にしても、先にある程度情報が欲しい。 ただ、そのうえで私は「終わらないでほしい」と思うこともある。「終わりを知りたい」というのは、「終わってほしい」ということで

          「ずっと」はないから輝くんだろうな

          沢山くっついている「嫌い」

          病気で自分の時間が止まった時に、一度いろんなものを手放した。それは物理的なものもそうだけど、今の自分に、そして与えてもらったこれからの自分に必要ないと思ったものもたくさん手放した。 今思えば、あの時の私は自分を嫌いじゃなかったなと思う。生きるのに必死で、大切なものだけが見えて、軽かったように思う。 5年という時間をかけて、また少しずつ少しずつ私は重くなってきている。いいものもよくないものも、積み重なってきた。 自分に、少しずつ「嫌い」というものがくっついていく感じがする

          沢山くっついている「嫌い」

          みんなのところに行けるまで

          慰霊碑や遺骨に手を合わせる時、いつも同じことを思う。「みんなのところに行けるまで、もう少しだけ頑張るから見ててね。もう少しだけ待っててね」 それは伝えたい言葉であると同時に、自分を支えるために言葉でもある。あの子たちに会えるように、もう少しだけ。それを笑顔で伝えられる時もあれば、泣きそうなときもある。 あとどれくらいで、会いに行けるのかな。私はあとどれくらいここにいるのかな。 生かしてもらった命を大切にしなきゃいけないのは重々承知している。それも今の私の生きる意味だ。わ

          みんなのところに行けるまで

          幸せかな どうかな

          前にも書いた気がするけど、また書きたいので書きます。 NHKの番組で、自分の家のペットを紹介する「うちにはこんなのがいます」という曲があった。1分ちょっとの短い曲なのだけど、私はこの曲を聞くといつも泣きそうになる。 歌詞の「うちでのくらしは 幸せかな どうかな」という部分で、私は毎回息が詰まる。うちに来てくれた子たちは、私と関わってくれた子たちは幸せだったかな?幸せでいてくれてるかな?幸せだったらいいなといつも願う。 答えを知るのはとても難しい。それでも私は、普段から多

          幸せかな どうかな

          鮮明に描ける妄想

          不安が強い人間なので、とにかく悪い未来を想像してしまう。仕事にしても日常生活にしても、自分が避けたい未来を想像して動けなくなる。 別にそうしたいわけではないし、そうなってほしいわけでもない。ただ無意識に、瞬間的に頭の中で作り上げる未来は、大抵よくないものなのだ。 いい未来も想像できる。これもやろうと思えばいくらでもできる。でもこれは無意識じゃない。これがこうだったら、としっかり自分で意識して作る。 私は本も漫画もたくさん読んできたからなのか、多分想像がすごくリアルなんだ

          鮮明に描ける妄想

          与えてもらうだけではなくて、なりたいと思った。

          十年以上好きなアーティストがいる。ずっとずっと大好きで、これからもたぶんずっと好きだと思う。妹も好きで、新しい曲が出る話をするし一緒にライブにも行く。好きなものを誰かと一緒に楽しめるのは幸せだと思う。 ふと、好きな曲の話になった。私はその時妹が好きだと言った曲を、すごく意外だと思った。 彼女は私とは正反対の性格といってもいいと思う。フットワークが軽くて、動くときに余計な思考を挟まない。困っている人がいたら考えるより先に手を差し伸べている。そういうことが、できる人間。 シ

          与えてもらうだけではなくて、なりたいと思った。

          天使を集めて並べてみたい

          犬の動画を見ている時に、外国の人が犬を見て「My sweet angel!!」と可愛いがっているのを見て、国籍問わずこういう時に「天使」という言葉が出てくるんだなぁと思った。 使われ方としては多分、かわいいとか愛しいの最上級だと思う。そういう気持ちがあふれるときに、人は「天使」という言葉を使う。 不思議だなぁと思う。人は、天使を見たことがない。私たちがイメージする(共通の認識にあると思われる)天使とは、想像して創造したものだ。本当に存在するかしないかはさておき、日常的に会

          天使を集めて並べてみたい

          バカな頃の私は強かった

          年を重ねて、耐えられないものが多くなった。忍耐力は多少ある人間だと思うけど、昔と比べると耐えられないものがすごく増えた気がする。 例えば、見られないアニメや漫画、映画が増えた。どんなに名作だと言われていても、つらくて見られないもの避けるものが多くなった。 見たくない描写が増えて、その映像に耐えられなくなった。暴力とか、理不尽な痛み、ツラい悲しい苦しいの感情、強い言葉、エトセトラ。たとえ作り話であったとしても、そういうものには触れたくない。 昔は平気だった。多方面の刺激に

          バカな頃の私は強かった

          「なんでずっと笑っているの」に凍りついた

          最近、仲良しの先輩方とそのお子さんと遊びに行く機会があった。 正直子供はあまり得意ではない。怖い。ただただ怖い。一緒にいるといろんな意味で不安になる。そもそも人見知る(私が)。 だけれども一応赤ちゃんの頃から知っているし、数回あったことあるし、他の大人もいるし、大丈夫どうにかなると自分を鼓舞して遊びに行った。 私をよく知る先輩方は私の緊張に気づいていたかもしれない。けど、最初はぎこちないながらもそれなりにうまく接することができていたと思う。 少しずつ慣れてみんなで遊ん

          「なんでずっと笑っているの」に凍りついた

          「必要とし、必要とされる」を見つける

          どんな人でも、「その人がいないと世界が終わる」なんてことはない。 もちろん赤ちゃんとか幼い子供は、育ててくれる人がいないと生きていけない。でもそれは「誰かがいないといけない」だけであって、「特定の1人にしかできない」わけではない。 誰しもが、言ってしまえばこの世界にとって「いなくてもいい」「いなくなってもいい」存在だ。 そんなことはわかっている。理屈ではわかっている。誰だっていなくてもいい。でも最近はずっとその言葉で自分を傷つけている気がする。 始めは、自分を許すため

          「必要とし、必要とされる」を見つける

          筋トレに目覚めたいかもしれない

          一昨日、またカギを忘れた。片道1時間ちょっとかかる実家のカギを忘れて実家に帰った。電車を降りて、バスに乗って、気づいた。バカすぎて泣きたかった。 中に入ることはできないけど、とりあえず家の前まで行ってみた。玄関の前は膝の高さくらいまで雪が積もっていて、まずドアにたどり着けなかった。郵便屋さんが何とか歩いた足跡をたどろうとしたのだけど、それすらももう雪をかぶっていた。 あまりにもひどいので、雪かきだけして帰ることにした。膝まで埋もれながらスコップを取りに行き、そこから一時間

          筋トレに目覚めたいかもしれない

          迷うという自由を選ぶ

          前職を辞めて2回目のお正月を迎えた。もう2回目?とも、まだ2回目?とも思った。変わらず前職の人たちと仲良くさせてもらっているのと、今の職で何も考えずに仕事をしているのとで、時間の感覚がよくわかんなくなっている。 最近また前職について考える機会があった。私は今の仕事を「次のステップまでのつなぎ」と考えているので、思い入れはないし使うエネルギーも最小限にしている。対して前職は「長年の目標」であり、当時の私の時間とエネルギーのほぼすべてを使うものだった。 辞めなければよかったと

          迷うという自由を選ぶ