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藤井風と祈りと歌と

歌と祈り

藤井風さんはしばしば「祈り」と発言します。なぜ彼は「祈る」のか。動画の中で「ハイヤーセルフ」の存在や「スピリチュアル」について話す彼の思想や信仰、宗教的なバックボーンは、まだ明らかにはされていません。


ただ、おそらく彼は音楽を学ぶ過程で、おのずと「祈り」には触れてきているはずです。それはなぜか?

理由は洋の東西を問わず、音楽は宗教と密接に関係しながら発展してきた歴史があるからです。


坂本龍一さんのラジオで

2021年の元旦に坂本龍一さんが「音楽と祈り」について、京都大学人文科学研究所教授の岡田暁生さんとラジオ対談をしていました。とてもわかりやすく興味深かったので聞き書きしました。


<岡田>

この本のあとがきで京都の町を歩いていたら、寺から厄払いの読経が聞こえてきた。足を止めて聴き入ってしまった。音楽とは本来こういうものではないか。現代のように、ひっきりなしに音楽があふれている社会生活は異常ではないか。

150年ぐらい前の村では(音楽が鳴るのは)お盆など行事の時ぐらい。エンタメとしての音楽が、そんなにひっきりなしに毎日あったわけではない。コロナで音楽がストップした中で読経が聞こえてきた。これこそが、もしかしたら音楽の本来のあり方ではないかと感動した。

多くの人が神にすがるしか無いような状況で祈りを捧げる。それが本来の音楽だったのではないだろうかと。同じ文脈で感銘を受けたのは9月にミラノスカラ座がヴェルディのレクイエムでリオープンしたこと。医療関係者だけを呼んで、ミラノ大聖堂の中でオンラインも交えて開催した。

ミラノ市長、イタリアの大統領、ミラノ大司教が参加。いざという時にはスカラ座オペラのオーケストラが教会で無事祈願の音楽を演奏できるんだなと。

ミラノ大司教が

「こういう時はカンタ・エ・プレイだ(歌って祈りましょう)」


と3回ぐらい言った。 なるほど、やはり「歌というのは祈り」なんです。毎日毎日、祈りを飽食していたら、浪費していてはいけなかったんだなと反省した。


<坂本>

ずっと以前から音楽というのは失われた物に対する追慕だと(思っている。)ノスタルジーというか。失われた故郷に対する追慕がブルースだし、それがジャズになるわけで。失われた者への追悼音楽がレクイエム。失われた時を思い出すのが無言歌になっている。あるいは失われた愛でもいいのかも。実はあまり音楽は希望を語るのには向いてないのかもしれない。亡くなった者に対する追悼として読経をする、あるいはレクイエムをする。

ヨーロッパ社会において音楽は不要不急のものではない

これがないと自分たちのアイデンティティが、文化があるいは国民精神が成り立たないと言うくらい大事なもの。そこが日本とは決定的に違うところ。

こういう危機的な時には行政から「(不要不急だからしばらく)やめろ」と言われる。欧米ではそういう時こそ「歌を!」となる。悲しいかな(音楽が)輸入品だからでしょうね。

コロナ渦でお寺が一斉に協同して祈りを上げている。東大寺自身が疫病対策として作られたものなので、そういうことから祈りと音楽が元々一体だったのかもしれないと思いますね。


NHK-FM 坂本龍一ニューイヤースペシャル 「音楽の危機、第九が歌えなくなった日」著者 岡田暁生氏との対談より

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音楽と祈りの関係性


坂本さんと岡田さんは「音楽と祈りの関係性」を例を挙げて、とてもわかりやすく語っています。日本では占星術師や呪術師などが祭りや宗教儀式の際に奏でる音楽が発展し、祭り囃子声明、神楽、雅楽になったりしました。欧州ではグレゴリオ聖歌(注:1)に始まり、賛美歌ゴスペル、コーランも同じ。寺院や教会、宗教行事を通して音楽が庶民に浸透していくのです。


(注:1)グレゴリオ聖歌(グレゴリオせいか、グレゴリアン・チャント、英: Gregorian Chant)は、西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ローマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽。 (Wikipediaより引用)

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<グレゴリオ聖歌の楽譜> 聖ヘンリクを讃えた、14 - 15世紀成立の譜線ネウマによる Graduale Aboense 収録のイントロイトゥス(入祭唱) Gaudeamus omnes (「全てのものよ、喜ばん」)

wikipediaより


演奏はこちらhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gaudeamus_omnes_-_Graduale_Aboense.ogg


祈りが歌になる

西洋音楽では賛美歌や聖歌、ミサ曲、モテット、カンタータ、コラール、オラトリオ、レクイエムなどを学びます。どれも宗教曲です。広く知られているものにはバッハの「マタイ受難曲」モーツァルトの「レクイエム」などがあります。

「歌う人」というくくりでは、声楽の初学者が必ず学ぶ「イタリア古典歌曲」という歌集があります。収められている曲は、ほぼ神を讃えるか、死なせてくれと神に懇願する歌です。恋愛の歌もありますが対象は「神」に対する恋慕だったりします。

オペラでもプッチーニ作曲の「トスカ」では運命に絶望した歌手のトスカが「何故このような過酷な運命を与えたのか」と神に助けを求めて祈る「歌に生き、愛に生き」というアリアが、よく知られています。


藤井風さんが声楽の勉強をしたかどうかはわかりませんが、音楽科のある高校に通い「歌う人」を目指したのであれば、これらの声楽曲のさわりや音楽史も履修していたのではないでしょうか。

風さんは"何なんw”って何なん Kaze talks about “Nan-Nan”の動画で「多くの日本人にとっても理解するのは難しいと思います」と語っていますが、彼自身は音楽を学ぶ中で、「祈り」や「信仰」には抵抗なく親しんできたと思われます。

「音楽=祈り」を理解せずして「歌」を歌うことはなかなか難しい。手を合わせて「祈る」風さんの姿は、ファンへの感謝の表れと共に、歌は彼なりの賛美歌であり、誰かのために歌うことで自分自身の信じる”神”に近付こうとしているようにも感じられるのです。


ちなみに、わたし自身は特定の信仰は持っていません。クリスマスには教会へ、除夜の鐘をつきに寺院へ、初詣は神社へ、という典型的な日本人に多い「神仏習合」スタイルかもしれません。八百万の神々を信仰し、日常的に信仰対象に祈りを捧げるほど熱心でもありません。それぞれの教義についてある程度の知識を持ったうえで「いいとこどり」をしているのだと思います。

音楽を学ぶ上で必要に駆られて、宗教や信仰についても学びましたが、今のところ、特定の信仰に傾倒した経験はありません。

それでも「神は自らに内在する。俯瞰し対話することで心の平安を保とう」と歌う藤井風さんの音楽と考え方には共鳴でき、理解もできます。

歌うには、創作活動をするには自分の心身を俯瞰する必要があるからです。



彼の言う「ハイヤーセルフ」について、これは別の機会に音楽的な観点から書いてみたいと思っています。


画像引用:藤井風公式YouTube


藤井風さんについて、いろいろ書いてます。




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