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子どもをどこまで𠮟り、コントロールすべきか。


対照的な2冊の本。

『子どもはそのままでいい』
と言いたい本

『親がしっかり言わないから、今の子どもは打たれ弱い子が多いよね』
と言いたい本

みなさんはどうでしょう。

世の中の流れ的には「前者がいいんじゃないかな?」という感想が多そうな肌感覚があります。
でも、「今の時代、大きな声では言いにくいけど、親がしっかり言わないから、今の子どもは打たれ弱い子が多いよねって実は思ってるんだよね」
って人が教育現場に多そうだなーという肌感覚が正直あります。

まぁ、単なる私の感想ですからどっちが正解かどうかもないんですが、私は『子どもはそのままでいい』の段階にいます。
前は、ある程度は言って聞かせないとダメだよねって思っていました。

では次に、

「子どもは叱った方がいい」
と言っている本

「叱ることには効果がない」
と言っている本

みなさんはどちらがしっくりきますか?

世界の押し返しに耐えられないのは大人たち。

この本について考察していきます。

レビューを見ていると、学校教育関係者さんらがこの本にしっくりこられているようなレビューがとても多い感じがしました。

・世界からの押し返しに耐えれるように学校で教育しないと
・親の躾が足りず甘い親が増えているのではないか
・世の中にはどうにもならないことがあると分からせないといけない
・いつまでも自由で好き放題ではなく、社会で生き抜くための力を身につけないといけない
・叱られなさすぎてダメになる子が現代では多いのでは
・不登校問題、学校だけではどうにもならないから親が厳しくしないといけない
・ストレスを他者にぶつけるのではなく、自分の中で納めるの大事
・学校現場での経験上、この本の内容はやっぱりそうだなと思う

こういうこと、なんとなく大きな声では言い辛い世の中になったなーという先生方の思いが噴出しているなーと察しちゃいます。

こうしないと、学校がうまく回らないよって思ったり、そう思わないとやってられないんじゃないのかなーとお察しはします。

お察ししますがなんていうか、先生の立場を守るための感想だよなーと。

つまり、世界の押し返しに耐えられてないのは先生ってことなんじゃないって思わずにはいられません。

我慢と忍耐、それ美味いの?

具体的にどういう場面でどう叱るのかってことは書いてなくて、「一体何を叱って忍耐力を付けさせたいんだろ?それ美味しいの?」と思ったりもしました。

だって、大人が「叱る」というのは、大人の経験からくる概念やものさしで「ジャッジ」して、「良い・悪い」を判断して叱るってことでしょ。

それって、もっともっと大いなるなにか(信仰心は無いし自分で書いててそれがなんなのか分からないけど)から見たら「それホント?」って思う訳で。

偏った読み方になっているかもしれませんが、書いてあることをざっくり言うと・・・

①叱られ慣れてない子どもが増えたんじゃない?
②親も子どもに気を使って子どものワガママを聞き過ぎじゃない?
③叱られることで忍耐力がついて人間関係を上手くやっていけるようになるじゃない?
④思い通りにいかないことを受け入れる練習が子どもの頃に必要じゃない?
⑤世の中に適応して、同調圧力に従える力も必要じゃない?
⑥ストレスを他者にぶつけるのではなく、自分の中で納めていけるようにしなくちゃ
⑦不快感情を納める経験を重ねないと人間関係をうまくつくれない、社会不適合になるかもよ
⑧不快感情の原因を他者ってしたらダメだよ
➈自分のネガティブを受け入れられるようにならなきゃ

というようなことが書いてありました。

でもさぁ、これ裏を返せば

①叱られるという恐怖心から行動を制限したり、恐怖心から行動すということが減るのはいいことなのかも
②親は子どもがどうしたいか耳を傾けるようになるのはいいことなのかも
③自分がどうしたいかはっきりしている子どもが増えたかも
④やりたいことを形にするにはどうしたらいいか考える子どもが増えたかも
⑤世の中に過度に適応せず、同調圧力の外にいることもいい意味で生存戦略かも
⑥身近な大人に言いたいことが言えるって大事なことかも
⑦不快感情を自分の中で納め、我慢しすぎて精神疾患になるのってどうよ
⑧この本の違和感を指摘されて不快でも、そんなことが分からない親だからダメだなんて思わないで、そういう押し返しに耐えて受け入れてね
➈ネガティブは悪いこと、ポジティブはいいこと、そんな風にジャッジする次元にいない。例えば「ポジティブに考えて♪」って言葉自体がホントにポジティブかどうか。なんか矛盾してない?って思うし。

こう考えるに至るのは、この本を否定しているでも屁理屈でもなく、単なる考え方の段階の変化なんだと思います。

ちなみに、最初は後者の考えを持っていたけど、前者の考えに移行したよって方は稀なんじゃないかと。

もちろん、前者が悪くて、後者がいいってことじゃなくて、単なる段階の違い。
色々あったからこそ、その段階に移行していったというか。

そういう体験、つまり世界の押し返しを受け入れて移行した人もいるだろうし、押し返しに耐えられず、今まで通りの価値観を引きずる人もいるだろうなと。(つまり、この時点でこの本の自己矛盾が生じてしまってる訳ですが)

我慢と忍耐、美味しいなら味わい尽くして~
私はもうそれらを味わい尽くし、もうお腹いっぱい。次へ行く。

新しい視点の獲得で段階移行。

先生が生徒に暴力を振るうの、昔はよくあったけど、今だったら大問題。

例えば「理解させる」ということについて、昔は

「こいつらは、体で分からせないと何も分からない」段階

竹刀を持って生徒指導をしていた先生も、竹刀で叩きはしないけど、竹刀の大きな音と威嚇と大声で

「こいつらは、言って聞かせないと何も分からない」段階

時代も後押しして、体罰ダメー、パワハラダメーとなり、新たな視点を獲得して段階が変わってきた歴史。

「理解させる」ということについて

体罰

言葉で「叱る」

今はその次の段階へ移る過渡期
それってなんだろうね

「段階が変わることはいいこと」というジャッジでもなくて、多分、ひとつ視点が増えるだけのこと。

(中には視点が増えるという意味ではなくて、手を挙げそうになるけど、手を挙げてしまうと結局自分が叱られる。叱られるのが怖いから手を挙げるのを我慢しているという残念な感覚の先生もいるかもしれないけれども。それなんか違う。)

じゃあ今の時代は、子どもとどう関わったらいいのかの目安もお手本自体も多様化してて、叱るのがいいのか叱らないのがいいのか、そんな答えはもう無くて・・・

叱るのが悪くて、叱らないのがいいとか、進んでるとか遅れてるとかもないし、叱ってみて、この子にとって良い方向につながったとかある訳で、その逆もある訳で。

つまり何が言いたかって、視点を増やすって発想で段階を移行させていくという学びがあるということ。
子どもも大人も関係なく、そんな学び方がこれからもっともっと必要になってくるんじゃないかと思う。それは誰かが分からせるという類のものでもなくて。

我慢と忍耐が好きならすればいいし、嫌いならしない方がいい。
精神衛生的にも。

なんていうか、パソコンの材料が何で、どう組み立てて、どうプログラムして動いているのか、よくよく理解してないとパソコンが使えないよって誰も言わないじゃん。そこ分からせないとパソコンは使いこなせないよとは誰も言わないじゃん。

パソコンはただの例えだけど、子どもたちは親世代が持ってない新たな視点を生まれながらに持っていて、次の段階へシュッと行くんだと思う。

だけど、次の段階にすぐにいけるのに、古い大人たちによって、古い箱に何回も何回も入れらるような・・・、体で分からせたり、言葉で分からせたり・・・
それ全部クリアしないと次行けないよって、いじわるをする大人たちがいるかのような。

「理解させる」ということについて
1980年代まで
体罰・・・今ではあきらかにありえない

1980年代~2020年頃まで
言葉で「叱る」・・・場合によってありえない(内容にもよる)

2020年頃~
次はそうだなぁ・・・
「フォースを感じる」
w

※スターウォーズのことはよく知りません

そう考えると「叱る」の次の段階ってなかなか理解しがたいですね。古き良き「叱る」が残って欲しい気持ちをもってしまうの分からなくもないです。
(ていうかホントにフォースか!?)

でもさ、段階が移行して「体罰」は完全にダメっていうのは理解できるでしょ。
でもって、今は移行期間、過渡期なんでしょう。
フォースはさておき。

でもそれくらい、新しい視点を獲得して段階移行するというのは、すぐには理解しにくいことなんでしょう。

「叱る」「コントロール」が結局遠回りだと身をもって知る人たち。

子どもが不登校になると・・・

・親が叱らないからだ、甘いからだ。
・親が良い習慣を身につけさせないからだ。
・親がゲームを与えっぱなしでルールを決めてさせないからだ。
・親が忙しすぎるからだ。ちゃんと見てあげて。

そういうことを言われることもあるし、そう言われてるんじゃないかと感じることがあります。

親たちも最初は子どもを色々とコントロールしたりと、手も口もいっぱい出て、ホントに色々やってみて、

「ああ・・・そういうことじゃなかったのかも」

と新たな視点にたどり着いたりします。(次はフォースか!?)

手探りでその境地に辿りつく人もいれば、同じような体験をした先輩ママたちの言葉から気がつく場合もあります。

手探り独学でフォースを感じる・・・w

不登校の親たちの視点獲得と段階移行。

叱ったりコントロールしていると、こじらせ期間が長くなるというのが最初は全然分からないんだけども、時間をかけて分かってくる人は少なくないです。

どうやったら分かるかというと、極端なものを見たら分かりやすい。

例えば、子どもに身体症状がでたり、リスカをしだしたり、食事を食べなかったり、食べ過ぎたり、暴力がひどかったり、何もせず宙を見つめていたり・・・
まぁ、人にもよりますが、

「何かできるようになることより、生きてるだけでいい」

という境地に辿り着く訳で、

・ああ、「何してもいいよ」って言うことは甘やかしではないんだな
・ああ、子どもが言いたいことを親に言えるって、どんなことを言ってこようが少なくとも信頼してるからだな
・ああ、不登校になってできることが減ってしまったけど、「したくない」って言えることは「これがしたい」と言えることと同じくらい大切で、それを経ないと本当の「これがしたい」が出てこないのかもしれない
・ああ、昔は良かれと思ってつい余計な口出しをしてしまい、実は子どもを傷つけていたけれど、子どもは許してくれるんだな。ホントにごめんね。
・ああ、子どもの自立とか聞いたら正直焦るけど、「待つ」ということが何なのかやっと分かったよ。

つまり、

『子どもはそのままでいい』
『叱ることには効果がない』

というところに、体験を通して移行する。
その視点を獲得していく不登校の親が増えているのかもしれません。

自分を変えられない大人たちの無自覚なダークサイド。

大人たちはね

「子どものために」

と、意図とコントロールを込めてしまうことが多い。
あらゆるジャッジをしてしまうことが多い。

だって、それを辞めてしまうのが怖いんだもん。
このままでいいのか、大人自身が超不安になる。

叱らなくていいのか、コントロールしなくていいのか・・・

世界には、それを外した体験談がたくさんあるのに、それを見ようとすることさえも怖いっていう大人はまだまだたくさくさん。

だって、今までの価値観が崩されたら、自分が保てないような気さえしてしまいますからね。

今まで自分は我慢してきたし、忍耐力を身に着けて、周りと上手くやってきた。ドヤっ。
それが世の中では有効だって信じられなかったら自分の頑張りはどうなっちちゃうの? シュン・・・

つまり、

「子どものため」
とか言いながら
「自分を変えられない大人たちの無自覚なダークサイドであり偽善」

そういうのが見え隠れしているのを、子どもたちは見透かしていたりします。

もうそれはダークサイド・・・だから仕方ない・・・
じゃなくて、階が違うだけ。知らないだけ。そんだけのことなんだわ。

『「叱らない」が子どもを苦しめる』の本も、「子どもが学校に行きたくない」と言ったらすんなり休ませるのが良い方向に向かう的なことが書いてあります。
(ここは叱らないのね)
それはたくさんの体験談の情報からそうおっしゃってるんだと思う。

それを知っていれば活用しない手はないですもん。
それもひとつの新たな視点。

専門家じゃない不登校の親たちは手探りでそれをやってきた。

「叱る」「叱らない」の向こう側。

向こう側は
『子どもはそのままでいい』
ということなのかもしれないです。

ライトもダークも一緒くたの『そのまま』

叱るかどうかよりも、
子どもたちを「愛おしい」と感じられる自分がいるかどうか。

そんな風に思います。

立花高校の校長先生(校長ちゃん)。
自分の学校の生徒を、こんなにも心から愛おしいと言ってくれる先生って、全国にどれくらいいらっしゃるのかな?


この方のお話を聴いていると、叱るとか、コントロールするとか、我慢させるとか、どうでもよくなってきます。
そんな浅いとこにいちゃダメだよ、大人たち。
子どもたちは、身をもって大人たちにメッセージを発してるんだよ。

そんな気がしてきます。

この動画、④まであります。

そして、校長ちゃんの本。

この本の中のエピソード

深夜俳諧で警察に補導されたお子さんのお母さんの涙ながらの言葉

『カラオケに行くような友だちができたのですか?夢のようです』

それで、よかよか  86の愛のメッセージ より

詳しくは、サンプルで読めます。

このエピソードから思うこと、

正論ばかり見てると、大事なことを見失っちゃう。
いつも見ているものと違うものを見てみる。
バイアスがかかっていないか時々観察する。
でも、見たいと思うものを見て、信じたいと思うものを信じればいい。
両方を見て自分で選んですすめばいい。
それは我がままじゃない。

結局、自分がどうしたいかしかない。

いいこと、悪いこと、嬉しいこと、嫌なこと、
生きてると色んなことを感じます。

その感じ方は人それぞれ。
同じことでも人によっては平気だったり、または絶望的だったりする訳で。

測れないものなのに、そこに押し込められてしまうのは苦しいことだと思います。
押し込められた挙句、我慢が足りない、忍耐が足りない、もっと心を強くしないと、親がもっと叱らないと・・・

もう、そんな世界線とは別のところを生きたいな。

『自分がどうしたいのか』を深く掘り下げる余裕が大事なのかも。

同じひとつのことでも、我慢と忍耐を全く感じないひともいるだろう。耐え難いと思う人もいるだろう。我慢と忍耐が好きな人もいるかもしれない。

もしも耐えがたいことだったら離れたり環境を変えることも必要。
それを「みんなはちゃんとできてるのに」という風に思ったり、押し付けたりするのは危険なこと。

・みんなはちゃんとできるのに何で自分はできないんだろう
・自分だけやらないのはおかしいから我慢してやろう
・こんなこと相談したら馬鹿にされるかも
・相談してもどうせダメって言われる

もしも子どもがこんな風に大人の顔色を伺って、世界の押し返しに耐え、不快感情を自分の中で納めて、同調圧力に屈し、自分がどうしたいかを見失ってしまったとしたら・・・

ホントにそれでいいのかなと悲しい気持ちになります。

何かあった時、躊躇なく大人に相談できる力がとても大事。

「自分の周りには、安心・安全な場所があり、信頼できる大人がいるって知ってる」

そういうことを、子ども自身がしっかり認識して生きられるような環境づくりと接し方を、大人たちが心掛けることが大事になってくるんだと思います。

どう叱り、どうコントロールするか。
そんなことどうでもいいことなんだと思います。そう思っているうちは、子どもとホントの信頼関係を築けないのかもしれない。

叱って、コントロールして、我慢させるようなこともですけど、
『子どもに教える』
ってことさえも、おこがましいと感じるほど、フォースなのかなんなのか、大いなるなんとかなのかなんなのかは分かりませんけど、2024年時点では言語化できそうでできないところにいます。

多分学校教育も
『教える』から次の何かにシフトするんじゃないかな。
今はその過渡期。


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