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今日ときめいた言葉9ー「日本人は日本語を実に粗末に扱ってきた」

「人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。

日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い<書き言葉>の伝統をもった日本語なのである。

(「日本語が滅びるとき」ー英語の世紀の中で 水村美苗 著)

それなのに我々日本人は、長い歴史を通して日本語を粗末に扱ってきたと水村氏は言う。1500年前は漢文(真名)に対する大和語(仮名)という下位に来る言語として、明治近代以降は西洋語に対する劣等感から、日本語に誇りが持てずにきた。

日本に日本語があるのは、あたかも日本に水があるのがあたりまえであったように、あたりまえのことだと思ってきた、と。このまま日本人が見識を改めないと日本語は亡びる運命にあると警告している。

現在の日本の学校教育に、そんな日本人の意識が見て取れる。

新学習指導要領案では、中学校3年の授業配分は、英語が週3時間から4時間、数学・社会も同様週3時間から4時間、理科にいたっては週2時間から4時間に増えているのに、国語は週3時間のままだそうだ。水村氏は国語こそ週5時間あって然るべきだという。

ちなみに他国の授業配分は、フランスではフランス語が5時間、ドイツではドイツ語が5時間、アメリカでも英語5時間だそうである(アメリカ人に日本の中学校の国語の授業時間が週3時間であることを告げると絶句されたそうだ)

しかも高校の国語教育の内容が、「直接役に立たない」文学作品ではなく、社会で「役に立つ」実用文を学ばせる方向にシフトしたという。文化人類学者の今福龍太氏は、この現状を憂いて、「知」とは何かを問うている

(2022年6月12日付 朝日新聞「いま、『知識』ではなく『知性』を」)

<「知」は、我々の社会を創造していく真の力であるが、その時の「知」とは「知識」(knowledge)ではなく、「知性」(intelligence)であるはずだと。

「役に立つ」知識=情報は、その社会に有用か否かの基準で判断され、実利的な目的のために使われ、体制に組み込まれ、それを支える力となるだけである。

そのような「知識」では、人間の命や自然の摂理については学ぶことはできないのだ、と。そして今福氏は、知性は「文学」に宿り、文学的知性がなければ学べない、と言っている。

同じく、秋田大学名誉教授の阿部昇氏も日本の国語教育について以下のように書いている(2022年7月5日付 朝日新聞「道徳より言語の教育を」より)

「明治以来日本の国語は子どもに極めて不完全な形でしか言語の力を育ててこなかった」「深く文章を読む力、説得力ある文章を書く力、質の高い対話を行う力などが十分に育てられていない。国語が言語の教育に徹しきれていないからだ」

阿部氏は、明治以来、日本の国語教育が道徳的要素を担わされてきたことを指摘する。それは現在においても踏襲されている。

小学生の文学教材「ごんぎつね」の例を挙げ、この教材に共感し泣き出す生徒が出る授業があるが、そのことが子供の言語能力を促進したかは問題にされない。涙だけで授業が高く評価されてしまう状況を危惧している。

さらに高校の国語を「論理国語」と「文学国語」の選択科目にしたことについては、文学軽視を前提に設計された制度であると指摘する。受験を意識して多くの生徒は「論理国語」を選択するだろうとを想定している。

そこには文学は道徳的なもので言語能力を育てないとの誤った見方がある。「文学でこそ育てられる言語の力があることを見落としている」と批判している。

水村氏も阿部氏と同様に「日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせることに主眼を置くべきである」とみたび強調している。「才能ある人たちが書いた文章を読む」ことで、その精神を身体全体で感じ取る。そうすることによってしか日本語は命をつなげられないとまで言っている。

しかし、そんな心配をよそに今の日本は世を上げて、「英語、英語、英語」である。英語の力をいかにつけるか。そして受験ではそれをどう測るのか。官民あげて英語問題に関心が集まる中で、自分達の言語である国語教育の改革の声は一向に聞こえてこない。

水村氏は、そんな今の状況に対して、英語の能力が「片言でも通じる喜び」などの程度ではなく、「読む能力」を徹底して身につけよと強調してる。

インターネットの時代、世界中で流通する「普遍語=英語」を読む能力は、聞く、話す能力の基礎となるもので、どの能力にも増して重要であると言っている。

「読むべきものを読みつなぐことが文化になる」のだと。

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