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『怪物』(監督:是枝裕和)を診て

自分的に、映画には2種類ある。
メモしたくなる映画とそうでない映画だ。
「怪物」は前者だった。
これ!と一つのテーマに絞ってこの映画を語ることは難しい。
そういう映画だからこそ、メモ取りたくなる映画なのだが。

単純に映画の構成が面白い。
前半だけではミスリードしてしまう、後から見えてくるそれぞれの視点。
その上でどの立場からこの物語を見ようとするか。
人によって捉えるポイントが様々分かれる映画だと思う。

映画内で起こる”問題”は山積みだ。
片親、育児、いじめ、情報の行き違い、見解の相違、環境による立場、ジェンダー、家庭内暴力、理解の拒絶、嘘などなど(これらが問題なのものもあればそうでないものもある。が、”問題”として捉えられるケースもあるという)。

親。担任。いろんな立場の先生。クラスの同級生。そして自分の子ども。
それぞれの立場からみるものは容易に捻じ曲がる。それが嘘であろうと嘘でなかろうとも。
この作品のなかで”嘘”は一つのキーだったように思う。やったことの嘘。やってないことの嘘。気持ちとは異なる言葉を、行動を取った嘘。
”嘘”と言えば、自分は大抵はどんな嘘をついた?と考えしまう。だが、嘘に限らず、こうした思い込みが真実から簡単に遠ざけてしまう。
自分が知り得ない事実は絶対にあって、悪意が無ければ何をやってもいいは通らないなと。

でもそれは話し合えば分かり合える、なんて簡単なことじゃあ決してない。
四六時中ずっと誰かの行動をみているなんて出来ない。ましてやその時何を想っていたかを理解することも勿論出来ない。そんなことは当たり前だと人は言うかもしれないが、そうは考えられなくなる。特に身近な人に何かあれば。
結局は自分がみてきたその人、自分がこの人はこういう人だと決めつけている、その人から逸脱したとき、見聞きしたものではなく、自分のなかのその人を信じようとする。
それを良い方にみせるか、悪い方にみせるか。。

解決策は無かったと言ってしまえば救いは無いが、苦しい状況を打開することが難しい場面は往々にしてある。それを思い知らされた。そして、自分は周りの人に何かあったとき、冷静に対処出来る自信は無いなと痛感させられた。

坂本裕二さんの脚本はいつも、ズドーンとくるセリフがどこかにある。
個人的にこのズドーンは希望的なものではない場合が多い(だから好きなんだけど)
人は幸せになれないと周りに知られるとしんどくなる。
それを跳ねのけて、これが幸せだからと貫けるほど、自分は強くない。
じゃあみんなの考える幸せに合わせにいけるかと言われればそれも難しい。
そして自分の考える幸せを簡単に人に押し付けてしまう。気付かずに。知らないうちに。多様性なんて簡単に使えない。多様性ってそんなに簡単じゃない。これは朝井リョウさんの「正欲」を読んだときも同じことを思った。

こうありたいと思うものが人によって異なるなんて当たり前。それは分かる。けど、自分の考えるこうあってほしいを押し付けてしまうこともまたよくあることだ。じゃあ自分の意見をまったく言わないことが良いかと言われたらそんなことはない。これが難しい。。バランス、と言えば簡単だが。。
どこまで言うかも人によるだろう。誰にどこまで言うか。それはその人とどこまで関わりたいか、責任持ちたいかとも言えるかも。。?

主要な登場人物には、「でも、大丈夫」と言ってあげたい(大丈夫ではないだろうけど)。誰かが言ってくれることで救われることは大きい。

監督・是枝裕和さん、脚本・坂元裕二さんの会見を映画観た後にみるとまた良い。。



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