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恋人不在の時間を楽しむ話

 近頃、恋人は忙しいようだ。去年の年末から資格取得のための勉強をはじめたらしく、それが佳境を迎えているらしい。それに加えて仕事の繁忙期が重なったので、目が回る忙しさだ。「時間が足らない」は最近の彼の口癖だ。だからいつものように「遊びに行こう」とも誘いづらい。あたしは今、久しぶりの一人の時間を満喫している。

 一人で行きたいところはたくさんある。狭くて薄暗い古着屋、休日はいつも混んでいる小洒落たカフェ、古い知り合いが経営しているインディーズ書籍の専門店、マイナーフィルムばかりを上映している町の小さな映画館。それらは全部あたしの趣味だ。少ないながら、会いたい人も幾人かいる。10年来の付き合いになる風変わりな女友達、最近転職した詩人の後輩、それに九州でお世話になった仲良しの先生。みんな気心知れた知り合いだが、彼に紹介するほどではない人たちだ。休日、試験勉強に没頭する恋人に愛の言葉と行先だけ伝えて、あたしは一人で街に出た。

 一人の時間を楽しむことは慣れている。あたしはもともと一人っ子だし、友達も少なかったから。一人で電車を乗り継ぐことも、一人でお店に入ることも何てことはない。すいすいとできるはず。一人で歩く速度はずいぶん前から慣れ親しんだ、あたし自身のスピードだ。
 しかしほどなくして、あたしはあたしの異変に気が付いた。電車を、間違えそうになった。道に、迷う。入るお店を、すぐに選べない。ランチメニューを、食べきれない。
 数少ない知り合いといるときでさえ、恋人のことを思い出す。「あの人はね、こんなことを言うの」「あの人と、こんな話をしたよ」「あの人は、これが大好きなの」恋人のことを、あたしは話している。
 恋人不在の時間は、というより恋人不在のあたしは、昔のように自由ではなかった。はしゃいでいるのにどこか不安で、楽しいはずなのにどこか安らげないでいる。おかしいなぁ、と心の中で首をかしげる。あたしはあたしが思っているよりもずっと恋人に頼りっきりの生活をしていたらしい。

 夜。恋人に連絡をした。一日中感じていた違和感を彼には話さなかった。あたしはどっと疲れていた。それでも恋人不在の時間を楽しむ自由な女みたいな顔で「楽しかったよ!」とだけ言った。しかし思い直して、すぐに付け加えた。「でもさぁ、今度は一緒に行こうよ」

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