見出し画像

ある雨の日の散文

雨だ。出かけるのが億劫で、ベッドに横たわっている。雨の中を歩く楽しみを知りたい。
同じ様に、人生を歩む楽しみも知りたい。
人生なんて、みんな必死のパッチなのだろうか。気を抜いたら、良くも悪くも自分をこの世界の中心みたいに考えてしまう私は、私ばかりが必死のパッチで生きているとつい思ってしまう。悪い癖である。

と言っても、外側が必死なのではなく、内側が必死なのだ。思春期の頃から今に至るまで、心はいつも大騒動。小石に躓いたかと思えば、そのままゴロンゴロンと谷底まで転げ落ちていく。本当に底まで落ちないと止まれない(止まる方法を知らない)ため、ペタンと地べたにはりつくまで落ちる。そしたらそこに、暗くて湿気のある谷底に咲いている花があって、その花の所にだけそっと光が差している。その、たぶんこの世で一番美しい花(だと今もまだ思っている)に触れ、そしてまた立ち上がり登っていく。その繰り返し。そうやってジェットコースターの様な心模様でずっと生きてきた。平坦な道なんて歩いたことがなかった。

それがここ最近、心の道が驚く程平坦なのだ。そもそも日常に、躓く小石が無いからかも知れないけれど、谷がやって来ない。谷が無ければ落ちることもないのだけれど、反対に上がることもないのだ。
これは異常事態だと主治医に報告してみたら、「それが普通なのかも知れないよ。」と。
ん?たしかに、これが「普通」の状態なのだろうか。

だとしても、例えば自転車競技の選手が、脚を鍛え上げているにも関わらず、普通に歩行するとすぐに疲れてしまう様に、私も普通に歩くのが辛い。谷底に転げ落ちる筋肉と、山を登って行く筋肉ばかり鍛えて生きてきたのだろう。加えて、心の上り下りで反動をつけて進んできたものだから、平坦を歩くのに息切れするのだ。
中年にさしかかって、平坦な道を息をあげて歩いている。もう比喩なんだか実際のことなんだか分からない。でもどこの筋肉だろうと鍛え直すのに遅くはない。そう言い聞かせて進んでいくのだ。人生を歩む楽しさを知る、そんな新しい入り口に立ったのだろう。

雨が止んだら道が光って、どこかでまだ見ぬ(この世で一番美しいかも知れない)花が咲いている。普通の道にも心躍る何かはあるのだろう。
だから出かけてみるとしよう。