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憧れの君

とある画家がある朝、起き出したかと思ったら一気に白いキャンバスに色を置いていく。そんな風に、目覚めたら世界が一気に春になっていた。

冬が嫌いというわけではないけれど、春になると、ようやく会いたい人に会えた様な気持ちになる。わくわくするとか、ときめくとか、そういった気持ちに自動的になる。

春ってどこか特別で、主役級の華やかさがあるけれど、でも「主役」ではない。そんな感じがするのは、とてつもないインパクトで現れるけれど、そのままの速度で去って行ってしまうからだろうか。等しく皆のもとにやってくるけれど、誰のものでもない。必ず去って行ってしまうけれど、必ずまたやって来てくれる。そういう中毒性みたいなものが、春にはある気がする。

そんな春の好きなところの一つは、色がたくさんあるところ。道を行けば至る所に花が溢れている。それだけで心が弾む。でも近年は、少し違う感情も抱くようになった。「ほっとする」のだ。これは、心穏やかになるという意味ではなく、世界にまだ自然の色が存在しているということと、人々がまだ自然を愛する気持ちを持っているということを実感し、ほっとするのだ。

何を言っているんだ当たり前じゃないかと、思われるかも知れないけれど、世界に植物を愛する人がたくさんいるのと同時に、日常の風景からどんどん植物を奪う人々もいるのだ。

ふと思ってみれば、よく見た未来のイメージ図には、最低限の緑しか無かった。その図が理想であり人間の憧れなのであれば、植物が伐採されていくのは、悲しい必然なのかも知れない。だからこそ、緑が減ってきた街中であっても、道沿いに植えられている並木や、家々の玄関先に植えられている花々を見ると、ほっとするのだ。

木々や草花が世界を保っていると言っても大袈裟ではなく、人間に四季を感じさせてくれるのもまた植物たちである。それが世界から無くなったら。どう考えたって世界は立ちゆかなくなるし、時間の流れの中で生きている人間にとって、四季が薄れていくということは、時間の流れが失われていくことに等しい。川の流れが止まっては川魚たちが生きていけないのと同じことに、なり得るのではと思う。

なんてことを考えてしまう春。自然を尊ぶ意識は大切だけれど、それも時代だなあと思うのです。春をのほほんと当たり前に享受できることを、喜びや憧れみたいに感じてしまうのは、私だけなのだろうか。

誰のものでもない春が、変わらず私たちのもとへやって来てくれる世界を、大切にしていきたい。