感動の沸点が高い僕には友人と感動を分かち合えない
こんにちは、あまたつです
今日はなかなか感動できない僕が友人と感動を分かち合えない悩みの話をします
あなたは紅葉狩りをして感動した経験はあるだろうか。ぼくは今までの人生で紅葉狩りを感動したことがない。
先日、友人と紅葉狩りしていたが友人は小さく黄色になった部分を観てテンションをあげていた。ぼくは花より団子なタイプでお菓子食べているほうが幸せです
友人から「紅葉狩り最高だよね、気分上がるわー」と言っていて「そうですね」と返すのが精一杯だった
友人は感動の沸点が低く、些細なことに感動する。田舎町の空気が美味しいことや山の景色が最高だよね。とか感動の沸点が高い僕にはなかなか実感しない感動を日々感じている
今までは気にしなかったが、自分は感動の沸点が高いんだなと思い少し悲しくなってきた
友人から度々発せられるなにかしらの感動のコメントに共感できない自分は冷たい人間のようにも感じられた。
今まで感動の沸点の高さに気にしてなかったです。
ただ友人と比較することで妙に意識するようになりました。
花火を観てもなかなか心が動かないなーとか、桜も感動するほではないなと思っていました
色々なものに感動する友人は幸せ者だなと思う半分、なかなか感動できないのは悲しいことだと思いました。
じゃあ感動のない毎日でいいのか。と思ってしまった。僕も感動しない訳じゃない。お気に入りのバスケのチームが優勝したら喜ぶし、生で野球観戦して好きな選手を近くで見られると子供のように興奮する
感動の沸点が高いだけで感動しないわけじゃない
ただ友人のように小さな幸せに感動できるようになりたいとは思う。
もちろん都会育ちの友人と田舎育ちの僕では感性も違って当然なのだが、些細なことに感動できるのは友人の個性だ
そして心をなかなか動かすことができないのも僕の個性だ
これは簡単に解決出来る問題じゃない。何が違うのか考えてみたところ、好奇心を持っているかの違いかもしれない。
友人は新しい刺激に敏感で常にアンテナを張っている。観光地のポスターを見かければ颯爽と取りにいく。「あまたつくん、どうこれ良くない?」って言ってきたり。
常に良いものを探している感覚があるようだ。
僕にはそれが足りない気がする。毎日にをルーティンのようにこなし、感動の少ない日々を過ごしている。
感動の沸点が高い僕には良いものを見つけようという無意識のアンテナがたっていないのかもしれない
それでもなかなか感動できないことは簡単には治らないだろう。
景色を楽しめないなら、食べることで楽しめればいい。花より団子な自分でいいんじゃないか。
友人とは方向性が違うことで楽しみを見つければいいんじゃないかと気づき始めた。
ただ感動を共有できないことは悲しい。でも無理に共感しなくてもいいし、人の感動のポイントは違うから合わせなくなてもいいと思えた今日この頃です。
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