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【感想文】川っぺりムコリッタ(#読書の秋2022)


日常の狭間で、死と、戯れる作品だった。

物語の中で巡るのは、死についての想い、父の遺骨、そして何かを食べる事。

死への想いと、遺骨と、食べる事。
共通点として、生と死が同時に存在していて、それが重なりあっている事だ。

人が死について想う時。
頭の中で想像している「死」は、所詮、生きている人間から見た「死」だ。
実際の死は、どのような物かわからない。
その死への想いは、生きている人間の頭の中に存在している、死。
死への想いという物は、生の中に死が包まれているのだ。

遺骨について。
遺骨は、まだ、その人の存在として、この世にあり、見て、触る事が出来る。
それは、死体だ。
しかし、遺骨が自分の近くにある以上、父は、この世から無くなった存在と言えるのだろうか。
遺骨は、死と生が共にある存在ではないか。

何かを食べる時。
その食べ物は、既に死体であるが、人間の中に取り込まれた時に、生命へと変わる。
人間が生きる源となる。
食べる事は、死が生に変わりゆく事だ。

そのように、生と死が重なり合っている瞬間、状態を、風変わりな人々による、柔らかい繋がりを持った人間関係の中で、描いていく。

川っぺりという場所は、死と共にある自然災害と隣り合わせであり、その理由で、主人公は、住処をそこに決めた。
いてもいなくても同じ自分の存在を、重ねて。

また、川はあの世とこの世の架け橋のモチーフとしても扱われる事が多い。

生きているのか死んでいるのかわからない。
自分をそう思っている人間が、このような事象と、そして他者と触れながら、変化していく姿を見ていく作品だ。

読んでいく内に、自分の体について、想いを馳せていった。
この本を読んでいる自分の肉体は生きている。
心臓は動き、眼で文章を読み、鼻で呼吸をしている。
きっと、内臓は、僕が生き続けるように懸命に動いてくれているだろう。
そして、頭の中は。
この文章の中に現れる登場人物達。
ユニークで変わり者で、近付きたがいが愛おしさも感じられる登場人物達が、頭の中に存在している。
頭の中にしか存在しない、それは、実態を持たない、死なる存在だ。

しかし、体に、想いを馳せると、そこには気付きがあった。
いま読書している自分は、頭の中にだけ人物達が居て、体というものは、心臓を動かしたり、眼を動かしたりしているだけではないか。
いや、そうではない。
注意して、体に想いを馳せながら読むと、作中の人物の言葉や行動により、自分の肉体の心臓の動きがはやくなったり、涙とは決して言えないが目にほんのりと潤いが生まれたり、お腹の体温が変わったりする。
そう、この本の登場人物も、存在しない、すなわち死なるものでありながら、僕の頭の中に入り込むだけでなく、体の中にも、するりと、入り込んでいる。そんな生としての人物としての実感も、僅かにでもあるのではないか。
幽霊とかそういう物ではなく、実際に生きている誰かと話す時に、体に入り込み、体が変化する、あの気持ちや肌感覚や体温、それが、この本の人物からも、受け取れている自分に気が付く。
生と死が同時に存在していて、それが重なりあっている。それは、この作品内容で描かれている事だけではなく、小説を読む事自体も、含まれているのではないか。

作者は、映画監督として、様々な映画を撮ってきている。本業は映画監督。
しかし、今作品は、小説だ。

映画では、人物が、画面越しではあるが、役者としてそこに生を持ち存在している。
小説は、読者の中に、人物が、生と死を持って存在する。
それは、小説でダイレクトに感じ取れる体験で、映画化はされているのだが、小説として読む事で、その生と死の重なりを、身を持って体験する事ができる。
他の本を読んでいる時も、そうだ。しかし、気付いていなかった。
この本の内容のお陰で、自覚的になれたのだ。
生と死が重なった内容を、生と死を重ねながら読む、そんな不思議な体験を得られた。
主人公は、当初、いてもいなくても同じ存在として、自分を見ていた。
しかし、確実に、居る存在として、少なくとも僕の中に、浮ついている。

#読書の秋2022

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