雨の日が好きになってしまった
子供の頃から雨の日が苦手だった。雨というだけで憂鬱な気分になる。退屈でしょうがない。肌寒いのにジメジメするし、靴も服もすぐ濡れてしまう。出かけようにも、雨の日に快適に過ごせる場所はあまり思いつかず、結局いつも時間を持て余す。昼寝でもしようかとベッドに横になったとき、返却期限が迫ったDVDが目に入った。重い腰を上げて着替え、窓の外を見て小さくため息をつく。財布と携帯をポケットに突っ込んで、傘を手に家を出た。帰って来たら、昼寝をしよう。
自宅から徒歩10分のところにあるレンタルビデオ屋の返却ボックスにDVDを返して、今日も借りていこうと店の奥へ足を運んだ。適当にぶらぶらしていると、洋画コーナーに佇む知っている横顔に心臓が跳ねた。中学生の頃一度だけ同じクラスになったことがある彼女は、髪が伸び、身長もおそらく少し伸びて、少女から大人の女性になっていた。卒業してから会うことはなく、久しぶりの再会になる。正直顔と名前を正確に覚えられている自信はあまりないが、自分も好きなシリーズもののDVDを手にしている彼女に、内心結構浮足立っていた。久しぶりなのに遠くから横顔だけですぐに彼女だとわかったのは、当時よくその横顔に見惚れて見慣れていたからだ。あの頃の気持ちが一気にフラッシュバックした。恋にまで発展しなかった、忘れかけていた想いが、今になって加速しだす。当時で止まっていた時計が急に動き出したようだった。こんなことになるならもっと洒落た格好をしてくればよかったと後悔しながらも、ゆっくり歩み寄る。なんて声をかけようか迷いながら口を開きかけたとき、彼女が顔を上げた。
「あれ、航星くん?」
先に話しかけられたことにも、彼女に名前を覚えられていたことにも驚きつつ、平静を装って軽く手を挙げた。
「わぁ、久しぶり。」
「久しぶり。中学卒業以来だね。」
あの頃と変わらない彼女の優しい笑顔に、もう誤魔化しが効かなくなった。この気持ちを自覚せざるを得なくなった。中学生のときは勇気が出なくて聞けなかった連絡先を聞いて、お互い手に持っていたDVDを借りて店を後にした。少し弱まってきた雨の中、隣同士で傘を差して、ぽつりぽつりとたわいもない会話を交わす。なんとかまた会えないかと、頭をフル回転させてうまい誘い文句を考える。分かれ道に差し掛かって、じゃあねと彼女が反対方向へ進もうとしたとき、咄嗟に手首を掴んでしまって我に返った。何か言いたいけれど何も思いつかない。不思議そうな顔で見つめられ、口を噤んだままそっと手を離した。
「どうしたの?」
「いや、あの……、今度、連絡するね。」
「あ、うん。」
「うん…。あ、じゃあ気を付けて。」
「うん。またね。」
小さく手を振って歩き出した彼女の背中をしばらく見送って、脈打つ心臓に手を当て大きく息を吐く。長年苦手だった雨の日が少し好きになりかけている自分の単純さに苦笑いしつつ、それでも行きとは正反対の軽やかな足取りで家路を急いだ。
雨粒が地面を叩く音に、少しずつ意識を現実へ引き戻される。懐かしい夢を見ていたような気がする。眠い目を擦りながら隣を確認した。広いベッドの持て余したスペースに手足を伸ばす。そうか、今日帰って来るのか。結婚したら式に向けてしばらく忙しくなるだろうからと、婚前前最後の休暇を利用して家族旅行に出掛けた彼女は、ここ数日家を空けている。二人暮らしのこの部屋で一人で過ごしていたせいか、雨の日が苦手だった頃の自分に逆戻りしてしまったようだ。彼女は予定していたデートが雨で延期になっても、文句ひとつ言わない。雨でも晴れでも曇りでも、その状況を嘆かずに違う方法で休日を楽しもうとする。彼女は日常の中に楽しみを見つけるのが上手だ。そんな彼女と過ごすうちに雨の日の楽しみ方を知り、今ではむしろ雨の日が楽しみになりつつある。ただし、彼女と過ごす休日に限る。彼女のいない雨の日はやはり退屈でしょうがない。この数日束の間の一人自由に過ごせる時間を得たにも関わらず、快適だったのは最初だけで、後半は寂しさのほうが勝ってしまった。何をしていいかわからず無駄に部屋をうろちょろして、結局昼寝に行き着く。雫が窓を伝って流れる音が響く静かすぎる部屋で、彼女のことを考えた。
彼女のいる雨の休日は、部屋で映画を見て過ごすことが多い。付き合い始めた当初から、どちらかと言えばインドアな僕らの雨の日のデートは、これが定番。電気を消して飲み物とお菓子を用意し、ソファーに隣同士で座って、ブランケットを二人で分け合う。外では人目を気にして恥ずかしがるけれど、家で過ごす雨の日は彼女のほうからくっついてくる。寒さを言い訳に僕にくっついて暖を取る。顔が緩むのを必死に抑える。彼女と過ごす雨の日が好きな理由のほとんどは、ここに占められている気がしなくもない。本人にばれたら照れてもうしないと言い出しそうだから、そっと胸に秘めておく。
それから彼女はお風呂が好きで、湯船に浸かる時間が長い。これは同棲を始めてから知った。雨の日はお気に入りの入浴剤を入れるから、より長くなる。鼻歌が聞こえてくると、つい耳を澄ませてしまう。最近は猫の動画にハマっていて、お風呂上がり、麦茶片手に携帯をいじっている姿をよく見かける。一度見始めるとしばらくかまってもらえなくなるから暇になる。たまに我慢できずにちょっかいをかけては制され、懲りずにまたかまっては制される。やめてと少し膨れるのがかわいくて、反応が欲しくてついやりすぎる。しつこくかまいすぎて十回に一回くらい怒らせてしまうこともある。拗ねさせてしまったときは、彼女の好きなアイスかゼリーを買って帰る。物で機嫌を取るのはどうかと思うが、結局いつもその二つに頼ってしまう。
「アイスかゼリー食べさせれば機嫌が直ると思ってるでしょ。」
「えっ!?、いや、そんなこと…。」
ないとは言い切れなかった。ばれている。不機嫌でも膨れっ面のまま全部食べ切るのがまたかわいく思えてしまって、結局いつも彼女には敵わない。惚れた弱みとはこのことか。
料理と洗濯は好きだけど、掃除が苦手で、特に水回りの掃除がめんどくさいらしい。以前彼女が仕事で自分は休みだったとき、風呂掃除でもしようと思い立ち、やり始めたら徹底的にきれいにしたくなってしばらく風呂場にこもった。
「すごい!ピカピカになってる!」
「暇だったし、ちょっと頑張ってみた。」
帰って来て目を輝かせた彼女に、大げさだなと思いつつまんざらでもなく、それ以来風呂場の掃除担当は僕になった。
布団に入ってから眠りに落ちるまでが早い彼女が先に寝てしまったときは、起こさないように寝顔をしばらく観察する。安心しきった顔で気持ちよさそうに寝息をたてられると、愛しさがこみ上げる。お互いまだ眠くない夜は、今日あったことを報告し合う。日常の中で起きた些細なことを、ころころ表情を変えて話す彼女と過ごすこの時間がたまらなく好きだ。いつも癒される。彼女と付き合ってからまるくなったなという友達の言葉を思い出す。彼女といると穏やかな気持ちになれる。天気はきっと関係ない。雨も晴れも、暑さも寒さも、なんてことない日も彼女が隣にいればそれでいい。何気ないありふれた毎日を、彼女の隣で当たり前に迎えられること。それは当たり前なんかじゃない、幸せ。大事に築き上げてきた、幸せ。これからも守っていくべき、幸せ。それがきっと、今一番の、幸せ。
枕元に置いた携帯が振動した。 表示されたメッセージ通知に、思わず笑みがこぼれる。
「あと30分くらいで最寄り駅に着くよ。お土産楽しみにしていてね。」
雨脚を確認しながら返信をして、上着を羽織って家を出た。暗く重たい空模様とは裏腹に、心は晴れやかだった。
君のおかげで雨の日が好きになってしまったよ。暖かい紅茶と見たがっていた映画のDVD、ふわふわのブランケット。おかえりの準備は満タンだ。だから早く帰っておいでよ。キャリーバッグと共に改札をくぐった君が、僕を見つけ嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に僕は何度だって恋に落ちる。憂鬱な雨の日も、きっと君の目には違って見えて、全てを分かることができなくても、隣で寄り添っていたい。君に見えているのと同じ景色を、隣で見てみたい。雨の日が好きになってしまった僕と、そのきっかけをくれた君との日常が、少しでも長く続きますように。日常に好きな人がいる喜びが、どうかこれからも続きますように。いつかと同じように、隣同士で傘を差して並んで歩く。二人の薬指にはめられたお揃いの指輪が、雲間から差し込んだ光に静かに照らされた。
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