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他者の想いをコトバにするということ〜ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観て〜

手紙とは自己の想いをコトバにしたためること。

でも、自分の想いって思った以上に自分ではわからないもの、コトバにならないものなのではないでしょうか。

今回の記事のベースになる物語「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はそうした人々のコトバにならない想いを手紙という形でコトバにする仕事「自動手記人形」を務める少女を主人公とする物語です。

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ヴァイオレット・エヴァーガーデンという物語

物語は第二次世界大戦直後のフランスをモデル(正確には違うかもですが・・・)として、繰り広げられます。主人公の少女、ヴァイオレットは孤児として生まれ、軍に引き取られそこで「武器」として育てられます。「武器」である彼女はコトバを教えられません。ただ、人を殺める力それだけを身につけ育っていきました。そんな少女を引き取った少佐ギルベルトは、コトバもしゃべれない彼女を見守りながら「戦力」としてではなく「ヴァイオレット」としてヴァイオレットとの交流を深めていきます。

少しずつ、けど着実にヴァイオレットはコトバを知り、与えられた命令のため、人を殺めるために生きるということではなく、自分のために生きるということを掴んでいきました。

しかし、悲しいことに悲劇は訪れます。終戦前最後の闘い、その帰還の最中に建物の崩壊に2人は巻き込まれてしまします。崩壊の直前、ギルバルトから「愛してる」というコトバを受け取り世界は暗転。目がさめるとそこは病院の天井、彼女の両手は失われていました。何より、生きる意味を与えてくれたギルバルトを失った彼女は生きる意味を失ってしまいました。

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ギルバルトの旧友であるホッジンズはそんな彼女を見かねて自分が経営する郵便社にて彼女を引き取ることにします。そこで彼女は自動手記人形という職業と出会います。彼女達の働く姿を見る中で依頼人の「愛してる」という想いをコトバにする場面に出会います。

ギルバルドが残した「愛してる」というコトバの意味がわからなかった彼女はその意味を知る為、自分の意志で、義手になったその冷たい金属の両手で、人々の暖かい想いを綴る自動手記人形としての人生を歩み始めます。

当時は識字率が低かったこと、タイプライターが生み出されたことなどによって自動手記人形という職業は重宝されていました。一方で、教育が普及し、想いを伝える端末も発展した現代においては他者を介して想いを伝えるという行為は非常に非効率に思えるかもしれません。

しかし私はこの非効率な行為こそ今の時代に必要なことなのではないかと思うのです。

想いをコトバにするということ

自分が恋をしているあの人へ、大切に育ててくれた家族へ、長年付き合ってきた友人へ、私たちは関係を結んだ誰かに必ず想いを抱いているもの。そうした人々に対して何か大切なメッセージを伝えようと考えるその行為はとても尊いものです。

けど、そうした大切な想いだからこそ、気恥ずかしかったり、何度も書き直しても「本当に」私が伝えたいコトバにならなかったりするものなのだと思います。

この物語を見た当初私は涙がなぜか止まらなかったことを覚えています。当時はなぜこうまでも感動するのか分からなかったですが、今になってその理由がわかった気がします。

子どもの頃から私は人に対して自分の想いを伝えることがとにかく苦手でした。人に何かを伝えようとすれば誤解され、もどかしくなった私はよく言葉の代わりに手を出してしまっていました。

それは青年になってからも変わらなかったと思います。いや、むしろひどくなっていたとも思います。不登校になり、社会から、他者から遠ざかった私は自分の中にある想いをコトバにする機会を徐々に失っていきました。

他者に語るコトバが消えた私は、徐々に自分に対して語るコトバも失っていきました。自分が今何を感じているのか、何を望んでいるのか、何に憤りを抱いているのか徐々にわからなくなり、やがてわからないということそのものがわからなくなって行ったようにも思います。

過去から今にかけての私の人生はこうしたコトバを取り戻していく物語だったのだと思います。今、こうして自分の想いをつらつら書くことができているのも徐々に、けど着実にコトバを取り戻して行ったからこそなのだと思います。

他者と「語る」ことで見える世界

そうした私の物語には必ず他者の存在がいました。それはしんどい状況の中常に支えてくれた両親だったり、冷たく当たる私を優しく受け止めてくれた家庭教師のおばちゃんだったり、不器用な私を仲間として対等に見てくれた友人だったり、様々な人々の関わりの中で私は自分のコトバを取り戻していったのだと思います。

最初はそれこそ人を「傷つける」「殺める」ためのコトバでした。

「憎い」「死ねばいい」「人生なんて、この社会なんてクソだ」「滅べばいい」「偽善だ」「救いなんて無い」「誰も信じることなんてできない」

そうした負のコトバが私を取り巻いていました。けど、そのコトバを他者が受け止めてくれたおかげで少しずつ、コトバの裏にある想いに気づけるようになったのだと思います。

「助けてほしかったんだね」「受け止めてほしかったんだね」「認めてほしかったんだね」「褒めてほしかったんだね」「愛してほしかったんだね」「受け入れてほしかったんだね」「共感してほしかったんだね」「一緒にいたかったんだね」「語りたかったんだね」

そうやってコトバにしてもらうことで、あぁ、なるほど私はこうした願いをコトバに込めていたのだと知ることができました。

気づいたことによって徐々に自分のコトバを、他者と「分かち合う」「愛する」ためのコトバを取り戻していったのだと思います。

きっとこの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という物語はヴァイオレット自身がコトバを取り戻していく物語として、ヴァイオレットが他者の物語を紡ぐ対話者として生きる物語として在るからこそ私は泣くほど心を動かされたのだと思います。

終わりに

「エモい」「わかる」「それな」、そうやって簡単にコトバにし、簡単に伝えることができる現代だからこそそのコトバの裏にあるコトバにならない想いに徐々に気づけない世の中になっているのではないかと思います。非効率なのかもしれない。けれど、その想いを受け止め、その裏に隠された願いをコトバにしてくれる人がきっと求められている、そんな気がします。

他者との対話のある世界になるために、「人の想いを紡ぐコトバ屋」として、「紡ぎ人」として生きるというのもありなのではと少し想い始めた、そんな想いをコトバにした記事でした。

(そんな感動を与えてくれた京都アニメーションに敬意を表して)

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