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"狂人"のいなくなったこの世界の片隅で

僕の好きな本でこんなお話が書かれている。

京都で暮らしていた頃、近所でよく会う初老の男性がいた。北山周辺でしか見かけないので、勝手に「北山のおっちゃん」と呼んでいた。
おっちゃんは、身長が180センチくらいあって、がっしりとした体格。私が乗っているバスにドカドカと乗ってきたり、またドカドカと降りていったりする。
近所のスーパーでは、店内をぐるぐると歩き回って、お惣菜などを買って足早に出ていく。いつもなにかに追われるように急いでいた。
おっちゃんは、たぶん風呂に入っていない。服も洗濯をしている様子がない。だから、少し臭う。スーパーに入ってくると、店員たちは顔を見合わせて、目配せしながら苦笑いする。おっちゃんは、いつもひとりだ。どこでどうやって生活をしているのか、わからない。
あるとき、いつものスーパーで買い物をしていると、おっちゃんが入ってきた。店内をきょろきょろと見渡し、すごい勢いで商品棚の間をまわりはじめる。店内には、ちょうどベビーカーを押した外国人の家族連れがいた。おっちゃんは、その奥さんに前で立ち止まると、唐突に英語で話しかけていた。
「Where are you from?」
「I am from Canada!」
「Oh,Canada! Toronto?」
「No,Vancouver!」
「Oh! Nice!」
おっちゃんは、笑顔でThank you! Bye!と言うと、レジでお金を払って急ぎ足で出て行った。
私が驚いたのは、おっちゃんが英語を話せたことではない。ふたりの会話があまりにも自然で、そこに何の違和感もなかったからだ。ぼくらが外国に行っても、陽気なおっちゃんに、突然「どこから来た?」なんて話しかけられることはよくある。その人のことを「おかしい」とは思わない。
いつものスーパーでは、店員はこそこそと笑い、客はおっちゃんの存在に気づかないようなふりをして目をそらす。そこでのおっちゃんは、いつも「変な人」だった。【うしろめたさの人類学/松村桂一郎】

さて、ここまでの話を聞いていてあなたは何を感じただろうか。
「おっさんを変な人扱いするなんてなんてかわいそうなんだ。」
「こそこそしてて何だかなぁ」
とおっさんに同情する人がいるかもしれない。

あるいは、
「こんな不気味なおっさんを野放しにお店に入れるなんて何ということだ」
「スーパーの店員はなぜ話しかけた時に止めなかったんだ」
とおっさんの振る舞いに関して怪訝な気持ちを抱く人がいるかもしれない。

ここで大切なのは、同情している人も、怪訝な気持ちを抱く人たちもおっさんを「変な人」扱いしていることを前提に話していることだ。

そして筆者は言う。

でも、その「おかしさ」をつくりだしているのは、おっちゃん自身ではなく、周りにいる僕らの方かもしれない。何事もなく買い物を続けるカナダ人家族を見ながら、そう思ってしまった。
人が精神を病む。それはその人ひとりの内面だけの問題ではない。もしかしたら、ぼくら自身が他人の「正常」や「異常」をつくりだすのに深く関わっているのではないか。【うしろめたさの人類学/松村桂一郎】

これから僕がこのnoteに記述していくのはそんな「正常」と「異常」にまつわるお話。


1、「ありのままに生きよう」とみんな言うけれど

「ありのままに生きよう」
なんて言葉を耳にするようになって久しい。

「ありのまま」漢字で書くと「在りのまま」。

ただ自分が今そう在るままであることが「ありのまま」と呼ぶのだとすれば、おそらく僕がこうやってnoteを書いている時も「ありのまま」だし。
何なら、「ありのままになれない苦しい」って悩んでいる時だって「ありのまま」と言えるかもしれない。

そう考えると何だか哲学的だし、この世界のすべて「ありのまま」な気がしてくる。

けれど、この「ありのまま」という言葉。聞く場所って何だか同じような話をしていることが多い気がするのは僕の気のせいではないはずだ。

例えば、
「自分の心と対話をすることを通してありのままになろう」
とか、
「自然と触れ合うことを通してありのままになろう」
とか、
「健康な食事と健康な生活を送ることを通してありのままになろう」
といった風なことをよく聞く気がする。

そこにイメージされるのは、どこかナチュラルでピュアでまじりっけのない綺麗な自分だ。
今の自分がそうあること全て「ありのまま」であるはずなのにどうしてそんなイメージを思い浮かべてしまうのだろう。

そしてもう一つの世界線でも似た話を聞く。
例えば、
「自分に向き合うことで自分のキャリアを描ける成功できる人になろう」
とか、
「自然を取り入れて心をリラックスしてフロー状態で仕事に取り組めるようになろう」
とか、
「健康な食事と健康な生活を送ることを通してハイパフォーマーになろう」
といった風な声を聞く気がする。

先ほど話た声とは全く違う世界線のはずだが、こちらでイメージされるのは、健康的で明るくてハキハキと充実しているようなそんな人物を想起させどこか似ているなぁと思ったりする。

最初の「ありのまま」の世界に関して、僕は「ソーシャルな世界線」と呼んでいる。
道徳的で、社会の課題に関して敏感で、地球や環境のことに配慮をしているそんな人たちを僕はイメージしてそう呼んでいる。

もう一方の世界に関しては僕は「マッチョな世界線」と呼んでいる。
現代社会の中でライフハックを徹底し、社会的成功に向けてどこまでも追い求めていく人たち、そんな人たちをイメージしてそう呼んでいる。

この、何だかきっと合わないだろうなぁという世界線のはずが、けどどこかで共通する価値観で繋がろうとしているのは僕の気のせいなのだろうか。


2、健康的で文化的な人間へ


「健康的で文化的な人間」僕はこの両者の世界は双方ともにそんな人間像を目指している、そんな気がしている。

ここで大切なのは、どちらもが内面も含めた人間像を目指していることだ。

たとえば、受験勉強で考えてみよう。

かつてはとにかく勉学ができること、そしてできる限り高い学歴を獲得することが大切だった。だからこそ、別に勉強ができればそこまでコミュニケーション含めた人間性は気にされなかった。

けれど、今は「健康的で文化的な人間」が標榜される。勉学に関して絞って話してもただ勉学ができるというスキルの部分だけでは「ガリ勉」と称されるようになった。何かの社会的達成にはスマートさが求められるようになったわけである。

東大の中に入ってみれば昔のイメージだったガリ勉なオタクたちはそこまで見かけず普通のスマートなザ大学生がその大半を占める。

仕事に関してもそうだろう。
かつては何かスキルがある、学歴があることなど自分が身につける装飾によって社会的位置付けが変わった。けれど、今はより”人間的な”性格や価値観の良さが必要になってきた。

まだ、自分に身につける装飾の多寡であれば救いはあった、それを装着すれば良いのだから。

けれど、そうではなくなった。性格や価値観、そうした本来は容易に変えられない、その人がその人たらしめる部分までも変化を求められるようになったのだ。

3、健康で文化的な人間になれない僕ら

話を戻そう。
さて、最初に話に出てきた北山のおっちゃんは「ありのまま」なのだろうか。ドカドカと足音を立てて街中を闊歩する、何だか気になった相手に対して臆することなく話しかける、自分の姿格好をあまり気にしない。
この部分だけ切り取れば健康的で文化的な何かよりも「ありのまま」な気も僕はするけれど。

きっと、そうは問屋がおろさないのだろう。

ソーシャルであること、マッチョであること。

両者が異なる人間像を標榜していた時、人間の許容度はきっと今より広かったのだろう。

けれど、どこか清潔で健康でピュアでまじりっけのない綺麗さが追求されたこの世界でそうはなれない何者かたちがこぼれ落ちてはいやしないだろうか。

ありのままで生きよう、ただし社会に害のない範囲内で。

ありのまま、多様性、個性の尊重。

何でも良さそうな許容度をイメージさせるスローガンの裏にある何でもよくない潔癖さ。

その、潔癖さがきっと「健康で文化的な人間」になることができない人々の存在を真綿で締め付けるようなじわじわとした苦しみを与え続けているのかもしれない。


4、”狂人”のいなくなったこの世界の片隅で

日本に生きる僕らは、どうか。精神に「異常」をきたした人は、家族や病院、施設に押し付けられ、多くの人が日常生活で関わる必要のない場所にいる。どこかで見かけたとしても、「見なかった/いなかったこと」にしている。あるいは、どうしたらいいかわからずに立ち往生する。
数年前に大阪の地下鉄で見かけた小柄な老婆の姿が目に焼き付いている。きちんとした身だしなみを整えたその女性は、にぎやかな人並みに背を向け、小さな布の上で、一人壁に向かって正座をしたまま、じっとしていた。
あの女性が社会から孤立しているのは、たぶん彼女だけの選択の結果ではない。私も含め、彼女の姿を視線の隅でとらえながらも、「関わらない」という選択をした多くの人々が、おそらくは、その現実を一緒につくりだしている。
そうして他者と関わらないことで、「ふつう」の人間像、「ふつう」の世界の姿が維持される。ぼくらが、いつもそこにあると信じて疑わない「ふつう」の世界は、じつは傍にいる他者によって、つねにその足元を揺さぶられている。【うしろめたさの人類学/松村桂一郎】

「ふつう」ではないそんな”狂人”は誰のことを指すのだろう。
きっとそれはどこか遠くにいる他人のことではない。「ふつう」の型紙から漏れ落ちた”あなた”もそこにはいないだろうか。

「他人を傷つけてはいけないから当たり障りのない話をしなければ」
「大人だから甘えてはいけないんだ」
「泣き叫びたいほど辛いけど、電車の中だから我慢をしなきゃ」

そんな声によって漏れ落ちた小さな”狂人”がきっとあなたの中にもいるかもしれない。
僕たちはそんな”狂人”と地続きの延長線上にきっと生きている。

「本当はそれは違うんじゃないって言いたいのに」
「本当は子どもになったように甘えたいのに」
「本当は周囲なんて関係なく泣きたい、感情を出したいのに」

”狂人”のいなくなったこの世界の片隅で、きっと数多くの小さいけど強い願いを持った”狂人”たちが今日も息を潜めて生きながらえている。


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