「個」を突き詰める フィギュアスケート選手からの気づき
「自分らしさ」「自分の強み」は、とてもつかみにくい。
人から見るイメージと、自覚しているものが違ったり。
はた、と思い出すのが、フィギュアスケートの選手たち。
脈絡もないようだけど、私が仕事で約8年にわたり間近で彼らに接したことで、実は、気づかされることが多かった。
それは、「個」を突き詰めるプロセス。
競技としてではなく、人として普遍的に通じるものだ。
今の私の活動は、まさにスポーツの中に見える「人の在り方」に焦点を当てているけれど、その視点のキッカケをくれたのはフィギュアスケート。
スケートへの興味はなくても、きっと自分らしさを活かすヒントになると思い、書こうと思い立った。
基礎を積み重ねた先に、自然とにじみ出るのが「個性」
フィギュアスケートは、大きく分けて「技術点」+「演技構成点」で評価採点される。
技術点は、ジャンプやスピンなど「技」の要素の正確さ。難度に応じて基礎点があり、完成度やミスで加点・減点される。
演技構成点は、振付やスピード感、音楽との調和などパフォーマンスの要素。熟度で加点方式。
「技術的な要素」「演技的な要素」はそれぞれ細かい採点項目はあるものの、動きを切り離せるものではなく、技とパフォーマンスが溶け込んで一つのプログラムが成立する。
どちらかと言えば、選手の「個性」は「演技構成点」に反映されやすいけれど、相反するものでもない。
すべては基礎的な技術が支えている。
いきなり「個性」を出そうと先走っては、文字どおり足元が追い付かず、応用も効かないし、バリエーション幅が狭くなる。
逆に基礎的な技術をしっかり身につけた選手ほど、表現の幅が広く、演技全体が安定する。
年を追うごとに、だんだんと個性が際立ってくる選手たちが多い。
まずは基礎的な体力、技術、知識、経験を積み重ねた先に「自分らしさ」が自然と乗っかっていくものだと実感する。
やっぱり基礎磨きなくして個性はない。
どんなことも「個性をつくらなきゃ」と焦らなくても、積み重ねていれば、自然とにじみ出てくるものが「個性」だと思う。
基本を押さえて 型にはめない「持ち味」を
基礎は大事だけど、技術の正確さだけでは、無難でつまらない。
自由なパフォーマンスだけでは、競技としての勝負にならない。
技の種類や数など「技術点」を着実に踏まえながら、いかに目を惹くパフォーマンス「演技構成点」を高めるか、が戦略のカギ。
選手たちは、この絶妙なバランスを模索している。
技術と美の融合は「体操」とも似ているけど、フィギュアには、さらに自由な要素がある。
曲選び、振付、衣装など「自分の好み」や「自分ならでは」を出しやすい。
技や動きの得意・不得意、クセ、体格、リズム感、放つ雰囲気…
一人として同じ人はいない。
技術センスだけでなく、その人独自の「雰囲気」や「気質」なども演技に醸し出されるところが、アーティストにとても近いと思う。
その持ち味によって、実は、似合う曲や振付も異なってくる。
A選手のいわゆる「勝ちプログラム」が、必ずしもB選手にフィットするわけではない、という妙がある。
人に合うものが、自分に合うわけではない。
尊敬する先人のマネというわけにもいかない。
極端に自分に合わないムリのしすぎは、良さが消され、かえってリスク。
違和感を抱えたままのメンタルでは、いい演技にはならない。
かといって、自分の「得意」「似合う」「好み」にばかり固執しすぎると、パターン化してしまい、マンネリ感は戦略的ではない。
こんなに「自由さ」がある中で勝負する競技。
そこが、フィギュアの難しくて、人間くさくて、おもしろいところ。
トライ&エラーの繰り返しで 型を少しずつ破る
「他人と異なる自分の持ち味」を最大限活かすためには、強みや弱みと向き合いながら、トライ&エラーが不可欠。
そうやって振付や曲の領域を広げる。
勝負を越えて、葛藤の域に達する選手は多い。
「守・破・離」の「破」と「離」のバランス。
「離」を突き詰めるほど、独自性が高まって、唯一無二に。
反面、行き過ぎると、競技としては、逸脱に。
これは、私たちにも当てはまると思う。
社会での信用を「守」りながら、型にはまらない「自分らしさ」をどこまで出せるか。
表層的な人マネではなく、自分の強みや弱みを探り、失敗も経験しながらつかんでいくんだろうと思う。
理屈を超える 持って生まれた天性
まだ技術は粗削りだし、ミスもしてるのに、なんだか人を惹きつける選手。
誰だ? この人は!
たとえば、リンクに一人でパッと立つだけで「華」があるとか、物怖じしない勢いとか、一心不乱さとか、フワッと空気感が変わる、とか。
不思議なもので、トップに行く選手は、たいていデビュー戦からこういう異才のような、人を惹きつける「スケール感」を持っていることが多い。
理屈ではなく、勝負とも関係なく、強烈な印象を残す。
「持って生まれた天性」。
努力とか基礎とか、そんなセオリーを吹っ飛ばしてしまうことがある。
技術センスとも別物。
積み重ねの先に「個性」がにじみ出てくる、とは矛盾するけど、天性にはあらがえない。
これは「人として」持って生まれた雰囲気、天性。
おそらく本人は無自覚。
これこそ、アーティストと同じだと思う。
ステージに一人で立っただけで絵になる、登場した瞬間にワッと空気が変わる、それと似ている。
こればかりは、マネのしようもなく、努力や練習ではかなわない。
フィギュアは、競技でありながら、こういう側面も目の当たりにする。
シビアだけど、「持って生まれた天性」は、まったく平等ではない。
優劣ではなくて、「それも込み」で土俵に立たないとならない。
だからって、身も蓋もない、と悲観する必要もなくて。
私たち誰もが「生まれ持った本質的な資質」は持っている。
いるだけで安心感のある人、どこか愛嬌があって憎めない人、なんだか話がおもしろい人、いれば場がなごむ人、とか。
努力とか理屈じゃない魅力。
比べて卑屈になるのではなくて、自分の中の「天性」や「資質」を素直に受け止めて、お互い認めることも大切なんだと思う。
人の目の評価は、ときに不本意で理不尽
自分では完璧にやった!と思ったのに…?
いまいち評価が低い、点数が出ない、なんてフィギュアの競技ではざらにある、酷なところ。
技術的なミスによる減点はわかりやすいけれど、「演技構成点」は明確な基準がわかりづらく、見た目の印象がジャッジを左右することは否めない。
パフォーマンスに対して、微々たる心象の差みたいなものはあると思う。
選手にとっては、不本意な採点になることも。
評価を素直に受け止められない、採点が不可解で納得いかない、そんな場面を私も何度か見てきた。
心中、察するに余りある。
評価はフェアであってほしいけど、人の目の限界もある。
スパッと決まるタイム競技や対戦競技と、そこが大きく違うところ。
採点競技は、ときに理不尽。
それでも選手たちは、消化し、また立ち上がる。
これこそが人間社会だなと、私は思う。
全てを正確な機械で測れるわけじゃないし、ニュアンスみたいなものが100%確実に伝わり、受け止められるとも限らない。
残念ながら、人からの評価は、必ずしも自分の思いと一致しない。
自分が頑張って努力しても、必ずしも評価や結果がついてくるとは限らない。
自分が良かれと思っても、人からは喜ばれないことも。
納得しきれないし、悔しいけど、それで腐ったらそこで終わり。
「人の目とはそういうもの」と、割り切り、織り込むしかない。
自分が絶対、と思い込まないようにする。
だからって、媚びたり、人の目を気にしすぎると、それは自分で自分でなくなってしまい、自分も楽しくない。
それは本末転倒。
片隅に客観的なシビアな目も想定して、人からの評価に一喜一憂しない、そんな余地を少し持っておくことが必要かなと思う。
最後は潔く覚悟を決める
フィギュアは、メンタルが大きく影響する競技だと言われる。
コーチや振付師など周りでサポートする人はいても、いざ、本番のリンクに出ていくのは一人。
不安なままでも、力みすぎても、ミスにつながる。
欲を出しすぎても、慎重すぎても、うまくいかない。
中途半端な気持ちだと、中途半端な演技になる。
程よい思い切りがないと、自分らしい伸び伸びとしたパフォーマンスにつながらない、そんな繊細なスポーツだ。
不安があったとしても、出ていくときは、考えず思い切って。
結果も、誰のせいにもできない、不本意でも、潔く一人で受け止める。
サポートしてくれる人はたくさんいても、最後は自分の覚悟。
フィギュア選手を見ていると、いつもそう感じる。
彼らのメンタルの強さに、いつも感服させられる。
それは、私のような一人の「個」にとっても、同じことだと思う。
「自分らしさ」とか「個性」とか、考えるだけでは生まれなくて、
まずは、腹を決めて一歩を踏み出して、人に見てもらわないと始まらない。
自分をみんなにさらしてみて、返ってくるもので、また自分を知る。
どんな結果であれ、評価であれ、自分が潔く受け止める。
恐れない、そんな覚悟。
「覚悟」というと大げさだけど、自分の腑に落として納得するような感覚。
自分の本心からの納得感があれば、それがきっと「個」だと思う。
+++++
フィギュアスケートは、日常の生活とはかけ離れた世界だけど、実は、とても"人間くさい"競技でもあると思う。
彼ら選手の闘いぶりには、「個」の極め方が凝縮されている。
選手でなくても、人としての「個」への普遍的な向き合い方として、私の心に深く刻まれ、人生訓にもなった。
長く語りすぎました💦
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。