見出し画像

師いわく「うまくやろうとするな」


「ハワイから氷まで」ーー
私は仕事で「フラ」にも携わり「フィギュアスケート」にも携わった。
文字通り、ハワイから氷まで、多くの師から同じ教えを聞いた。

媚びたり独りよがりは、鼻につく

映画『フラガール』のモデルとなったカレイナニ早川先生。
映画で松雪泰子さんが演じた熱血講師の実在の人物で、「スパリゾートハワイアンズ」のフラダンサーの指導者でもある。
私は、映画とのタイアップでフラの本を2シリーズ制作した当時、何度も早川先生とお話しする機会があった。

ご高齢になっても、かくしゃくとしてポリシーを持ち、エンターテイメントに対して妥協がなく、現役のフラダンサーにも厳しい。
日本にフラを持ち込んだ開拓者としての気骨や情熱は、並大抵ではなかっただろうと、昔を彷彿させる存在感と迫力がある。

「スパリゾートハワイアンズ」のフラガール達の美しい踊りやパフォーマンスは、厳しい練習と基礎を積んでこそ。

このとき、私もちょっとフラを体験してみたけれど、キツイ!
ふんわり楽しそう~なイメージに騙されちゃいけない、あの基本姿勢を保つだけで足腰・腹筋が筋肉痛になる。
基本動作を一人前にマスターできるようになるまで数年かかるそうだ。
それぐらいフラは見た目の印象よりも技術の習得が大変なのだ。

厳しい特訓を経てステージに立つダンサーたちに、早川先生が口酸っぱくして教えるのは、

「うまく見せようとしないこと」


徹底的に技術を叩き込みながら、最後は、うまく踊ろうとするな。

踊りは心が表れると言う。
自分をうまく見せよう、という欲や、媚びる気持ちは、必ず踊りに表れ、その独りよがりは、見ている人の鼻につく、と説く。
卑しい気持ちだと卑しい踊りになる、と手厳しい。
技術あっての表現だけど、魅了するのは、結局その人の「心持ち」だと

早川先生ご自身も、筋の通った気骨の中に、エネルギーがあふれ、温かくて優しい眼差しがあって、どこか愛嬌もある。
そんなまっすぐでピュアな心意気が、説得力そのものだ。

人の心を揺さぶるのは 無心さ

フィギュアスケートは、フラとはまた違う「競技」の場。
エンターテイメント性の強い競技ではあるけれど、試合となればシビア。

それでも、私が接した多くのコーチや選手たちは、心がけとして口をそろえる。

「うまくやってやろうとしないこと」

フラの早川先生と異口同音。本当にビックリした。

「スケートには、人となりが出る」とコーチからはよく聞いた。
選手自身も「うまくやってやろう」と欲を出すとうまくいかない、とよく言っていた。

ご存じのとおりフィギュアスケートは、「技術点」と「演技構成点」で採点される。
ジャンプやスピンなどの技術的要素の他に、振付などパフォーマンスとしての熟度が評価され、それを採点するのは「人の目」。
「印象」という曖昧なものに左右されることはどうしても否めない。

ジャッジではない私が見ていても、実際、同じ選手でも気持ちが乗っている時とそうでないときの滑りは迫ってくるものが違う。
技術は粗削りでも、無心のパフォーマンスは惹きつけられ、印象に残る。
技術をソツなく器用にこなそうとするスケーターが、必ずしも魅了するパフォーマンスにつながるわけではない、という実感がある。

「観客を巻き込む圧巻の演技」というのは、スケートのうまさ以上に、スケーターから自然とにじみ出てくる、ほとばしる無自覚な思いやエネルギーに、見ている者が引き込まれているとき。
勝負とは別次元のこともあるけれど、結果として評価が高いことも多い。

高難度テクニックがないと勝負にもならない世界でも、やっぱり最後に人に訴える力は「無心さ」だったりする。


さらに歌の世界でも。
私の尊敬する作曲家の筒美京平先生も、昔、某アイドルに

「うまく歌おうとしなくていい。君の思うようにやればいい」

そうアドバイスしている映像を見たことがある。

確かに音符どおりに上手に歌えるテクニックが、人の心を揺さぶるわけではない。

同じ曲でも、キレイにレコーディングされた音源よりも、少しハズれたりかすれたりして雑味も含む「そのときだけのエネルギー」の詰まったライブ音源のほうがグッと来たりすることもある。

技術を磨くことと、「うまくやってやろう」は違う

フラでもスケートでも歌でも、驚くほど指導者が共通して同じことを言っている。

うまくやってやろうとしてはいけない。


それは、けっして、
技術はさておき気持ちだ、とか、気持ちさえあれば技術をおろそかにしてもいい、という意味ではない。

そもそも、自分らしい自由な表現は、基礎的な技術がないと成立さえしないから、技術を磨く向上心と鍛錬はとても重要。

「うまくなりたい」と「うまくやってやろう」は紙一重だけど全く違う。

「うまくやってやろう」というのは「企み」であって、鍛錬とは違う。

「企み」とか、妙な「欲」が入ると、途端に何かを崩し、歪ませるのかもしれない。
ストレートな気持ちよさを曇らせて、人心も離れてしまう。
これは、踊りや歌に限らず、私たちの身近なアクションにも通じると思う。

たとえばこうして「書く」ということも。
報酬を頂いて仕事で書く場合は、自分の思いのまま書くわけにはいかず、どうしても目的に沿って「うまくまとめる」テクニックを使う。

ある程度のテクニックは必要だけど、技術を身に付ければ付けるほど、「うまく書こう」としてしまう。
それが仇になることもある。

色々なものを身につけた器用な大人ほど、「うまくやろうとしない」ことを意識したほうがいい。
師たちの言葉を心がけようと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?