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鎮魂の地、宮城県石巻での体験~東日本大震災の被害を越えて創業40周年を迎える企業の記念誌の編纂

noteを書き続けていると、揺れた

2015年、私は2011年3月11日の東日本大震災(3.11)後、宮城県石巻市で創業40周年を迎える会社から記念誌を発行したいとの連絡を受け取った。  

この時の体験を何日か前から noteに書き始めていたところ、この3月17日の深夜、福島県沖を震源とした震度6強というかなり大きな地震が起こった。

都内でも一部停電が発生し、私の住まいも3.11を思い出させるように大きく揺れた。
それに続く翌18日今度は岩手県沖を震源とする震度5強の地震が発生した。最初の地震では3名の方が亡くなり、震源地に近い場所で住宅の損壊も出た。

 この大きな2つの地震による津波の被害はさいわい発生せず、福島の原子力発電所にも大きな異常は発生しなかった(火力発電所では被害が出て、首都圏の節電要請につながったが)。

地震の翌日、メールで石巻の同社の社長や幹部の方や仙台市内在住の知り合いにお見舞いを送ると、全員が3.11以降で最大の揺れを感じたという不安そうな返事が戻ってきた。
きっと宮城県、岩手県、福島県の人たちも同じ不安を抱いたであろう。

東日本大震災から11周年を迎えたばかりで、テレビや新聞では3.11関連の出来事を報じていた矢先のことでもあり、特に東日本に暮らす人は多かれ少なかれ、当時の様子が思い起こされ、今後の大震災に対する準備の見直しについてあらためて考えることになったと思う。

復興の中で取材することの迷い

話を冒頭の創業40周年記念誌にもどす。

この会社は3.11の大津波で、次期社長(3.11当時)となる方やその右腕となることを期待されていた幹部社員が津波で流され、この幹部社員は亡くなった。海岸沿いの会社建物は流失したので、2013年本社を別の地に新築して、事業継承を行い、新社長の下で組織体制も刷新したことなどは事前にうかがっていた。

仕事を受けるにあたって、私は、まず会長夫妻や社長にお会いし、40周年記念誌について、お話をうかがうことにした。

2014年の当時、仙台と石巻をつなぐJR仙石線は大津波の被害のため不通で、仙台から石巻への唯一の公共交通となったバスに乗った。

バスでの道のりは約二時間。途中、高速道路からはじめて観る景色を眺めながら、この記念誌の編纂で3.11から3年が経過したとはいえ、社長自身が大津波で流され九死に一生を得たうえに、同じように津波で流された右腕の幹部を失という辛い体験をした社長へ、どの程度の取材ができるのか、私には迷う気持ちがあった。

額縁の中の段ボールが語りかける

その気持ちを抱えたまま、建てられて間もないこの会社の玄関を入った。すると1階の廊下に、何枚もの段ボール紙が掲示されているのが目に入った。

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なんだろうと思い、近づいてその段ボール紙を見てみると、どうやら、この会社の主要業務である電柱・電線工事に関係する内容のようであった。

案内されて応接室に入ると、会長夫妻と社長の三人が私を迎えてくださり、最初に、今回の記念誌発行の目的や発行の予定日などを聞かせてくれた。

会長からは3.11という想定外の大きな出来事がきっかけとなって、次期社長への継承を決断したこと。

来る2015年8月に創立40周年を迎えるので、そこに合わせて記念誌を発行したいという目的をうかがった。
同席した会長夫人は、住宅も大津波の被害を受けて、家具類と共にたくさんあったアルバム類は泥水をかぶってしまったことを語り、その中から何枚かの写真を選んで「写真店できれいにしてもらったので、それを持参しました」と見せてくれた。10枚にも満たない、たいへん貴重な写真だった。

お二人の話をうかがい、私は、いろいろクリアすべきハードルはあるが、40周年記念誌発行のお手伝いをしたいという気持ちが、より強くなった。

 私が先ほど見た廊下の額縁の段ボールについてうかがったところ、会長は「大津波の翌日、旧本社のあった場所に、数人の社員が自主的に出社し、町のあちこちに出かけていき、寸断された幹線道路の電柱・電線の復旧のために作業を始めた。
その時は電話も電気も通じなかったので、現場に向かうときに段ボールにマジックを使って自分の行き先や仕事内容などを書いて出かけていった。

私は、この新本社が完成したとき、社員が、この段ボールに書かれた大震災の貴重な記録のことをこれからもずっと忘れずに伝えていって欲しいと思って、専門店でスチールの額縁をつけてもらい、廊下に掲示することにした」と話してくれた。

消えた迷い

続いて社長が「会長夫妻への取材が終わったら、私への取材は継承以降の出来事を中心にしましょう。記念誌編纂で必要と思われる資料・写真などはすべて提供しますので、率直に言ってください。具体的な日程は追って連絡してください。
社員への取材などについては、記念誌担当の幹部社員にすでに話していますので、彼と連絡しながら進めてください」とのことであった。

先ほどまであった社長の取材について私の迷いは、どうやら杞憂だったようでほっとした。

その後、約6ヶ月間かかることになる同社の40周年記念誌の編纂はこうして始まった。

津波は北上川をのぼっていった

3回目の取材が終わったとき、会長が隣町の女川市まで案内しようと言ってくださり、車で出かけてくれたことがあった。

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雨の中、北上川をずっと奥の方に上っていくと、その途中には会長の生家があった。
3.11の時にはこんな北上川の山奥まで、すごい勢いで大津波が逆流し押し寄せ、さらに山の方にのぼっていったことを教えてくれた。車は、しばらく進み、硯の材料石で有名な雄勝町を通り抜け、女川町に入った。

海岸に面している女川町の中心部は、根こそぎ大津波の被害を被って、更地になって、多くの建機が入り、高台を造成する工事が始まっていた。

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 日和山からの景色を見て考えたこと

こうして、私は社史の打ち合わせのために、月1回、多いときには2回の頻で2回の頻度で同社に出かけた。

打ち合わせが終わると、私はいくどとなく石巻市内の小高い日和山(ひよりやま)公園まで出かけた。公園からは眼下に石巻港や広がる海をのぞむことができる。

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明るい日差しの下、海はどこまでも穏やかで遠くまで広がっている。人影はまったく無く、震災前に多くあったという牡蠣小屋も建て替えられる前で、そこには静かな時間が流れていた。

眼下に海を望む公園に立つと、3.11の時この地域一帯に10メートルを超える大津波が押し寄せ、建物や自動車などが次々に濁流に流される恐ろしいテレビの画像をが思い起こされた。

そして大津波の悲惨な光景のすさまじさと、いま眼下の広々とした海の静謐さとの落差の大きさに圧倒され、言葉にならなかった。

 この石巻だけでなく、東日本各地の太平洋沿岸には、3.11の大津波で家族や身近な人を失った人たちや地域社会が被った深く大きな痛手は、いまだたしかに存在していることを私は感じた。

私は海に向かってしばし黙祷した。

深い哀しみに、少しだけ触れた

 2015年3月11日にも、私は石巻の会社を訪れていた。

大震災があった午後2時46分の時刻に、市内にサイレンが鳴りわたり、同社の社員全員は会社の玄関前に立ち、黙祷をささげている様子を目にした。

この時、私は、同市の人たちの心の奥にある3.11の深い哀しみに、少しだけ触れたように思った。

 はじめて石巻の会社を訪れてから約6ヶ月、予定通り40周年記念誌が完成して、2015年の同社の記念式典に参列した方々に配布された。

その後も私は数回石巻を訪れ、そのたびに石巻という地は私の中で、深く親しみを抱く土地のひとつとなっていった。

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 いずれ再訪する石巻

それから時間が経過し、2018年10月、同社の会長が亡くなったとの知らせを私は受け取った。

その2ヶ月ほどまえ、私は会長と電話でまた石巻にうかがいたいと伝えていたので、この突然の訃報に、かなりうろたえた。

申し訳なかったことに、葬儀はどうしても外せない他の予定があってうかがうことができなかった。

 亡くなった会長へお線香をあげたいという気持ちを抱えたまま、葬儀の直後から始まったコロナ禍のため、石巻を訪れる機会がないまま、もう3年以上の時間が経った。

 いずれ私は石巻を再訪し、会長にお線香をあげたいと願っている。

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