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かわいがられない人は田舎でどうやって暮らすか

どうも自分は「かわいがられる」ことがあまりない人生を送ってきた気がする。

猛烈な日射しを浴びながら息も絶え絶え田んぼの畔の草刈りをしているその時になぜかそんなことを思った。

最近この田舎に移住してきた若者が就農し、近所の農機具屋さんに足しげく通い、かわいがられているという噂を小耳にはさんだからかもしれない。

オレは移住して10年が経つが、この話に少なからずもやもやしていた。それはちょっとしたうらやましさを覚えたからだろう。と思って自分の過去において、誰かからかわいがられたことがあるか、記憶をたどってみたのだけど、やはり思い当たらない。

そりゃ仲良くしてくれてる先輩の一人や二人はいてくれるが、「かわいがられる人」の圧倒的なかわいがられ方とは比較にならない。

音楽界隈というもっとも先輩後輩関係の深さが業界での居場所にかかわってくるような場にいたときも、かわいがられることなく、単独行動が多かった。あいつ、お師匠さんにかわいがってもらってたなあと思い出せる同輩のミュージシャンたちは、今も業界で確固たる仕事をしている。

この差は何なのか。そもそも、かわいがる、かわいがられる、という行為は人の営みにおいてどんな意味を持つのか。

そしておそらくこのかわいがられる存在になれるかどうかというのは、移住した先が田舎であればあるほど、暮らしやすさにつながってくる要因の一つとなるのではないか。

突如として沸き起こった「オレってかわいがられねぇなぁ」という嘆きとあきらめの入り混じったような想いの正体が何かを掘り下げたいと思い書くことにした。

かわいがる人とかわいがられる人の関係性

上下関係をつなぐ交換様式

かわいがる、というのは、先輩がある特定の後輩に対してひいき的に面倒をよく見てあげる、というようなことだが、時にあえて厳しい言葉をかけて人の道を示し成長を促す、というような意味も含まれているようだ。

実際の場では後輩に対し、自分の気まぐれな享楽にもとことん付き合ってくれて、自分を立ててくれるような人が「みどころのあるヤツ」としてかわいがる対象になると見受けられる。かわりにムチャな振りをこなしていったヤツには自分の持つリソースを融通し、後輩の献身に有形無形で応える。
この交換までを果たしてはじめてかわいがる・かわいがられるの関係性になるわけで、ムチャぶりだけではただのイジメなのでそこは区別したい。

逆に後輩の方としても、やんちゃで無茶をしがちだけど、上下関係を非常に重んじ、自分の仲間と思えば厚い絆を寄せるがゆえに先輩方も目を離せない、そんなティピカルな存在が目に浮かぶ。
そういう人物は集団内でも存在感があり、かわいがられることで次第に重要な役割を任されるようになる。かわいがる行為にはそういう期待も込められていそうだ。

加えて、かわいがることは上下関係のくさびを打っておくことともいえる。かわいがってあげた後輩が実力を持てば、その後ろ盾としての立ち位置が確保できるし、何か起これば必ず自分の意向をうかがいに来る。いわゆる筋を通すというやつで、それは集団や組織としての安定的な維持に多いに役立つだろう。

ある意味、御恩と奉公の関係性に近い。

封建制の名残が色濃く残るような田舎においては、この関係性を重視されるのは言うまでもない。ここでは年長者や地域の実力者の存在感が強い。ヨソモノが円滑な移住を望むなら、彼らにかわいがられることが地域にいち早くなじんでいけるコツだろう。

自分がかわいがられる対象になれば、地域のこまごまとした慣習や暗黙の了解について教えてもらえるし、ものを借りたり困ったときの助けになってくれて、非常に頼もしい存在となる。それだけでなく、地域の一員としてそぐわない言動には厳しくかつ愛情をこめた注意指導して、絆を深めていく。

かわいがられる人がしていること

では、どうすればかわいがられるか。
かわいがられる人に共通してみられるのは、実力者たちの懐に入り込んでいく積極的な行動だ。

かわいがられることのないオレから見たかわいがられる人がしていることを観察した結果、次のような行動をするとかわいがれる度合いが増していく。
とにかく顔を合わせたらなんでもいいから声をかける。むしろ相手が気づいていなくても見かけたら車を方向転換してでも声をかけにいく。天気のこと、田畑の具合などが共通の話題として話しやすい。
町内会などの集まりには必ず顔を出したり、共同作業で一緒に汗をかくことは大事で、ときに酒の席で一緒にはめを外し、とことん付き合う(これはポイントが高い)。
このあたりが基本的な態度で、さらにかわいがられる度合いを増したければ、冒頭の移住者の例が参考になる。彼は物怖じすることなく近所の農機具屋さんに出入りして、資材を購入するだけでなく、用はなくても情報を集めたり、コミュニケーションを活発にしてきた。つまりこの農機具屋さんを頼りにしているという態度を明確に示してきた結果、優先的な便宜を受けスムーズに農業に専心できているだけでなく、地域の中で非常に見どころのある有能な青年だ、という評判が立っている。

肝心なのはこれらの行動を自然にできる人がかわいがられるということだ。便宜を受けようと下心が見えると相手は感ずくし、人としてあなたに興味があります、という気持ちが大事なのだが、自然に湧き起らないものを湧き起らせる、というのもとても難しい。

かわいがられない人がしていること

オレはと言えばどうだろう、移住10年目を迎えてもなお、こんな風に日々の様々な疑義や違和感の考証などしてしまうことからわかるように、周りから見れば、一向に地域に染まらないヤツ、と見られている。
さしたる実力もないのに、自分のやり方とか、自分で考えることを大事にしようと思うあまりに、困ってるなら助けてあげようかという親切な申し出や「そんなの当たり前だろ」的な戒めに対しても、本当にそれでいいのか、とまず自分の中で反芻する癖がある。簡単に言えば、素直でない。

正直、後から来た移住者たちが地域でうまくやっているのを見ると、自分の世渡り下手さにため息が出る。
多分かわいがられるための努力をすれば、今まで以上に地域のリソースを活用し、いろんなことを仲間たちと実現もできるのだろうけど、それ以上に自分の納得感の方が大事なのだ。

やっかいなことに、誰かが自分をかわいがってくれそうだという気配を察すると、自分からソソっと離れていく癖もある。
これはもともと何かに属することが苦手で独りで行動しがちなことがあるだけでなく、だれとも分け隔てない交流をしたいという気持ちが強いからでもある。つまり、かわいがられると、そこで○○門下的に自分の属性が決まってしまい、自分の中にフィルターをつくりだしてしまうことを危惧しできる限り避けてきた。

音楽の現場にいたころの話

冒頭でも書いたが、自分はドラマーとしてすこーしだけ音楽業界の淵にもいたが、音楽に限らずこの手の界隈では師匠を持つことで業界への足掛かりとするのは定石である。しかしオレはなるべくフリーな立場にいて、日本中世界中いろんなアーティストとかかわりたい、という夢があったので、特定の人を師匠としてついて回ることを選択しなかった。その結果、当たり前のことだが仕事というのは師匠筋の近縁で回しあっていたりするので、そもそもその筋にいない自分に声がかかるわけがないのだ。それでもオレは独立していることを選んだのだから、この結末は致し方ない。

逆に、仕事やステップアップのためと思って顔の広そうな実力者に近づこうとすると、そういった利己的な目的はどうも勘づかれるようで、あまり相手にされなかったことも思い出す。つまり、本当に魅力に思えるものを持っているからその教えを請いたい、という純粋な動機がないと簡単にはかわいがってはくれない。

かわいがられない人は、かわいがることもない

ちなみに、オレにはかわいがってあげてる後輩もいない。オレの懐に飛び込んでくるような人もいない。かわいがられない性分というのは、自らがかわいがることもしない。

それはきっとオレは自分より年下だろうがなんだろうが、各々が自分の道理で生きていて、彼らよりオレの道理の方が人の道にかなっている、なんて思えないからだ。オレの方が年上だから正しい道理を知っている、なんてことがあるわけない。

それ以前に、実績も何もない人間に取り入ったところで何も引き出せないことは自分でも承知している。そんなんだから何かを言い切る、ということに途方もない無責任さを感じてしまう。
気恥ずかしすぎて先輩風を吹かすなど到底できない。

逆にかわいがってくれる先輩方の心持ちに思いをはせてみれば、先輩であるという立場に何かしら責任を感じての親切心で頼りない後輩に道理を説いてくれてるのかもしれない。と思えば理解できないこともなく、それはそれでありがたいことなのだろうけど、こちらとしてはただただフラットな関係を望んでいるだけなのだ。

かわいがられない人はどう生きるか

かわいがる、かわいがられるという交換は決してネガティブなものでなく、お互いに利害が合致する同士であれば、持続的な集団の維持や切れ目のないリソースの継承に大いに役立つ大事な営みであることに違いない。
オレらかわいがられない人間は独力で様々なリソースを探りあてていく必要があるし、せっかく得たリソースもあとにつなげるものがいなければ、墓場に持ちこんで終わるだけの話で、どうしても点的になってしまい、それって人間全体の活動から見たらどうなの?と思わざるも得ない。
だが、絶対的な上下関係など自分の中で拒否感の強いものにさらされ続けるのもまたしんどい。それは自分で気づき考えることを大事にしている人にとって、考える余地をはく奪されていると感じるからだろう。

しかし、常に「これでいいのか」と考えるということによって、効率は悪いのかもしれないが、上意下達からでは生まれない人の営みをより豊かにしてくれる新しい発見がなされてきた、とも考えられる。全体に対してもこういう役目を負うことができるからこそ、独立的なタイプの人もまた社会に必要とされて生き残ってきたのだろう。そういう価値を自分に認めてあげると自分の性分に対して納得いくかもしれない。

そのままでも、見てくれている人はいる

まあそれでも平時は何かと人間関係に悩まされるのがかわいがられない人ではあるが、それも救いようはある。

自らをなんとか一目置いてもらおうとがんばらなくとも、日々自分のやるべきことに向き合って、ひたむきに暮らしていく姿は、どこかで誰かしら見ていてくれるものである。実は影で応援してくれている人は自分の考えているよりも多いものだ。そんな人は絆を取りかわすのに目に見える献身を要求することもない。口には出さなくとも見守ってくれる。

その点、月並みではあるけどSNSで自分の行動を発信できるというのはやっぱり良い時代だと実感している。空間を超えてお互いがんばってるねと励ましあう関係性を持ってることは、実生活で上下関係を苦手とする人が少しでも心地よく暮らしていくための新しい時代の知恵でもある。
それは同時に、閉じた人間関係に悩まされがちな田舎暮らしでも外から見守ってくれる人たちの存在はとても心強く、彼らに支えられることでだれもが自分なりの田舎暮らしを送れる可能性をも持つ。言い換えれば、田舎暮らしがだれにとってもより快適に暮らせる時代になりつつある、ということを移住10年を迎えて実感もしている。

まあ相手がだれであろうと最低限のあいさつはしといた方がいいのは言うまでもあるまい。

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