さみるあ

丁寧、丁寧、丁寧な生活

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最近の記事

孤独の受容。良質な人間関係。

小さい頃から孤独に耐性があった。なので、孤独を恐れる人を理解できなかった。 中学を卒業し、高校入学前の春休み。みんなこぞってSNSで「来年から高校生。同じ学校の人は仲良くしてね!」と投稿し、孤独な高校生活への予防線を張っていた。 予防線を張り忘れたのか上手くいかなかったのか、クラスで孤立しそうな子は、陰で小馬鹿にしているグループに擦り寄り、にっこりと笑っていた。 思い返すと、それらの人間のふるまいを見て、心のどこかで見下していた。孤独に怯える姿が、ひどく滑稽に見えた。

    • 若いうちに遊べ。すべてが高校デビューになる前に。

      こんにちは、さるみあです。 前回は「よく遊びよく学べ」について書きました。今回はこの「遊び」の重要性にフォーカスしたいと思います。 結論からいうと、若い内に遊んでおかないと、人生のあらゆる場面で高校デビューのようになります。 まず、高校デビューについて、そしてそれが遊びとどう結びつくのかを書いていきます。 一般的に使われる「高校デビュー」の意味は下記の2つですが、今回は1.の意味で使います。 中学時代にスクールカースト下位だった子が高校入学と同時にカースト上位の真似を

      • "よく遊びよく学べ"の本質

        現代社会で説かれるのは学びの重要性ばかりで、遊びについて触れられる機会は少ない。 ネットでいろいろ調べてみたが、"よく遊びよく学べ"の出典や意図などは分からなかった。なので、自分なりに考えてみよう。 まず、この言葉は誰に向けられたものか。おそらくは成長過程の、前途洋々な若者たちへ向けたものだろう。勉学に勤しむ青少年、特に学生。学生の本業は学業だが、遊びも重要である。ということだろう。 では、この「よく遊ぶ」とはどういうことなのか。学びの重要性は現代人の多くが知っている。

        • 世界一退屈な物語を求めて

          小説にはいろいろな性格、価値観の人が登場する。短い人生では出会えない、多種多様な人間の価値観や生き方を追体験できる素敵なエンタメだ。 だが、ふと感じたことがある。小説の主人公は共感能力が高く、感受性が豊かな人間が多い。 犯罪者や社会からドロップアウトした人物が主人公でも、感受性が高いが故に社内と折り合いがつかなかったり、人間関係の苦しみを抱える人物だったりする。 『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンはクラスメイトや教師、あらゆる人を「いんちき野郎」とこき下ろすが、自身が

        孤独の受容。良質な人間関係。

          つまらない人に共通する特徴・それにより発生する問題

          僕は常々、面白い人でありたいと思っている。だが、"面白い人"の明確な基準は無いし、その姿も多種多様だ。 トークが上手い人、天然な人、寡黙なのに突然秀逸なことを言う人。面白さは様々だし、それを面白いと感じるかは人によって異なる。 だが反対に、つまらない人には共通する特徴がある。 それは"共感能力の欠如"だ。面白さは千差万別だが、つまらなさはほぼこれに起因している。 共感能力の欠如を発端にいろいろな問題が発生し、つまらなさを形成している。 共感能力の欠如により発生する問題

          つまらない人に共通する特徴・それにより発生する問題

          それは偏見ですらない言葉

          現代は言うまでもなく情報過多社会。 読書の合間にスマホを弄り、料理をしながらラジオを聴き、Netflixを見ながらご飯を食べる。 本能的に良いことでないと感じつつも、つい情報を摂取してしまう。摂取せずにはいられない。 そんな自分に嫌気が差すたびに思い出すのは、レイ・ブラッドベリによって1953年に書かれたSF小説『華氏451度』だ。 NHKの番組「100分de名著」のサイトに良い紹介文があったので載せておく。 この作品は愚民政策やテレビによる文化の崩壊について書かれて

          それは偏見ですらない言葉

          「人と比べない」というタフでハードな生き方

          人と比べるのはやめよう。 比較しない生き方をしよう。 最近こういった啓蒙をよく見かけます。僕も賛成です。人と比べてばかりだと悩んだり落ち込んだりして疲れてしまいますもんね。 ただ、noteやSNSでその啓蒙の元を辿る「比べてもいいことないよ」と書いてある。それだけです。 これを読んで 「へえ、人と比べなければいいんだ。よし、比べるのをやめよう!」 と心を入れ替え、人生が豊かになって万事解決。そんな風になるとはとても思えません。 健康診断でお医者さんに言われる「バランス

          「人と比べない」というタフでハードな生き方

          「聞く」技術を得る2つの方法

          人間はつくづく話したがりな生き物だと思う。 全人類の「話したい感情」と「聞きたい感情」を抽出して数値化できたら9:1くらい、いや、10:0かもしれない。 僕はときどき「聞き上手だね」と言われる。 はじめは「そうかな?」と思っていたが、定期的に言われるので「まあそうなのかな」と思うようになった。 会話のプロでもなければ専門家でもない僕が、聞くということについて語ってみる。 聞く技術の前に、そもそも人はなぜあんなに話したがりなのか。 この理由は明白で、他人の話より自分の

          「聞く」技術を得る2つの方法

          「何をしたか」ではなく「何を感じたか」で自分を語れよ

          ルフィの名言ということになっている例のフォーマットで今の心情を表現した。 ここ最近感じるのは、人生経験と人間としての魅力は必ずしも相関しない、ということだ。 上京してもうすぐ2年。出身はもちろん、経歴、価値観、本当にさまざまな人がいると感心させられる。 自分がどれだけ努力してもたどり着けない年収を稼いでいる人の話、自分の人生では絶対に巡り会わないであろう壮絶な体験談など。どれも新鮮で驚くばかりだ。 だが、その驚きとその人自身に魅力を感じるかは、必ずしもイコールではない

          「何をしたか」ではなく「何を感じたか」で自分を語れよ

          なぜ二重から一重に整形する人がいないのか。

          一昔前までは、整形にはネガティブなイメージが付きものだった。だが今では身近なものになりつつある。 お手頃価格で心理的ハードルも低いプチ整形という選択肢もある。誰もが美しさを手に入れられる時代。素晴らしいと思う。 整形をカミングアウトする芸能人やYouTuberもいるし、知人が整形したという話も聞く。二重、鼻筋を細くする、顎を削る、など。 ただ、僕が気になるのは、上に書いた整形の「反対」をする人を、まったく聞かないことだ。 二重から一重にする人 鼻筋を太くする人 顎の幅

          なぜ二重から一重に整形する人がいないのか。

          幸福と雲

          幸福は、雲だ。 満たされていないときの不安や焦燥感が好きだ。 「きっとこれこそが幸福だ」と必死に追い求め、手を伸ばす。 自分が幸福の外にいて、そこに向かっているんだという実感がある。 でも、いざ自分が幸福の中に入ってしまうと、何処にいるのか、何に手を伸ばせばいいのか分からなくなる。 夢を追うバンドマン。バイト生活の売れない芸人。そんな人たちがどうしても輝いて見えてしまうのはそのせいかもしれない。 彼らは、今自分が求める幸福の外にいて、そこに必死に手を伸ばしている。

          本から離れてしばらく

          僕は最近、本を読まなくなりました。 しばらく前は、月に1冊くらい、焦らず、自分のペースでゆっくりと読んでいました。 最近は、いろいろな生活の変化があり、本を読めるのは電車に揺られているときや寝る前の5分くらい。 生活は、とても楽しいです。 太宰のこの言葉をしみじみと感じています。 本の中に描かれている人の心の美しさ、醜さ、気高さに触れなくても、生きていける。 文字が頭の中を流れて、映像がありありと浮かびがあってくる。そんな体験がなくても、平気。 でも、本のない生

          本から離れてしばらく

          【ハロウィン読書】ケルト 再生の思想 - ハロウィンからの生命循環

          去年のクリスマス前にクリスマス文化についての本を読みました。イベントの前にその歴史に触れる。読書好きとしては最高の季節の楽しみ方だと思いませんか? そして、来たるハロウィン。10月の半ばには買っておいたご時間が取れず、ハロウィン当日に読み終えました。 今年は終わってしまいますが、ハロウィンを楽しむ上でとても興味深い内容の一冊だったので、簡単に紹介します。 ハロウィンのルーツまず、ハロウィンの起源はケルト文化にあります。ケルトとは紀元前400年ごろにヨーロッパに住んでいた

          【ハロウィン読書】ケルト 再生の思想 - ハロウィンからの生命循環

          「東京は田舎者の集まり」だと思ってたのに

          よく聞く言葉です。 僕は今年の7月に愛知県の片田舎から東京に出てきた人間で、まさに「田舎者の集まり」のひとり。 仕事や生活に慣れてきて、田舎者らしくショッピングやお洒落なカフェに行って都会暮らしを満喫しています。 暮らし始めて3ヶ月が過ぎた今、思うこと。 田舎者、以外と少ないじゃん! 田舎者の集まりというからには 「北は北海道 南は沖縄」と全国各地の田舎者が勢揃いの街が東京だと思っていました。 職場の人や新しくできた友達とは出身の話をすることが多い。自分の肌感では、

          「東京は田舎者の集まり」だと思ってたのに

          何度遅刻されても、僕は5分前に行く

          僕はとても心配症な人間です。5分前には絶対に集合場所に着くように行動し、心配のあまり30分前に着くこともあります。 そんな人間だけど、なぜか周りには時間にルーズな人が多い。 待つことはぜんぜん平気なんですが、先日友人から「待たせて申し訳ないから、丁寧に時間守らなくていいよ」と言われました。 それでも、僕は5分前に行きます。 友人が時間ピッタリに来ることはないんだから、律儀に時間を守る必要もないのかも。でも、じゃあ僕もゆっくり行こうとは思わない。これは生き方の問題なんです

          何度遅刻されても、僕は5分前に行く

          文体は思考を規定するのか

          本屋で立ち読みしたときに面白い言葉を見つけました。 これはサピア=ウォーフの仮説という言語学の話でよく使われる言葉で、平たく言うと「使う言語によって思考も決まってしまうよね」という仮説です。 よく例に出される、カナダの北極圏に住む民族の話があります。 彼らは常に雪と共に暮らしているので、雪を表現する言葉が200個以上もあるそうです。日本語にも「粉雪 (こなゆき)」「細雪(ささめゆき)」など雪に関するさまざまな表現がありますが、とても200個はなさそうです。 「ということ

          文体は思考を規定するのか