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孤独の受容。良質な人間関係。

小さい頃から孤独に耐性があった。なので、孤独を恐れる人を理解できなかった。

中学を卒業し、高校入学前の春休み。みんなこぞってSNSで「来年から高校生。同じ学校の人は仲良くしてね!」と投稿し、孤独な高校生活への予防線を張っていた。

予防線を張り忘れたのか上手くいかなかったのか、クラスで孤立しそうな子は、陰で小馬鹿にしているグループに擦り寄り、にっこりと笑っていた。

思い返すと、それらの人間のふるまいを見て、心のどこかで見下していた。孤独に怯える姿が、ひどく滑稽に見えた。

小さい頃から父親は常々「生涯独身だと老後孤独になるぞ」と言っていた。それを聞いて僕は"孤独を避けるために誰かと一緒になるなんて、カッコ悪い"と思っていた。

30歳を目前にした今、そうは思わない。むしろ、人間の活動のほとんどは、孤独との闘いが目的だと感じるようになった。借りてきたような言葉だが、人生は孤独との闘いだ。

結婚し子を成すことで法的な、血縁という実際的な繋がりを作る。仕事を通して社会に貢献することで、集団の中の地位を築く。趣味を熱中し、孤独を忘れる。

幼少期は孤独に強いと思っていたが、今では孤独を感じ、恐れることがある。20代半ばに上京して地元を離れ、家族や恋人はおろか気軽に会える友達も居ない状況。仕事を淡々とこなして迎えた休日の朝。SNSを開くと、仲の良かった地元の友達同士で遊んでいたり、結婚して子育てに奔走していたり。

僕はスマホを閉じ、憧れていた都内の飲食店に行き、地方には無い最新スポットを巡りに巡った。最悪な気分だった。そして、孤独に強いと自負していただけに、認めたくなかった。

自分の人生が誰とも交わらず、どこにも行き着かないような不安。孤独というものが、社会的な生き物にとって耐え難い苦痛であることを身をもって思い知った。身体の一部に穴が空き、内容物が漏れ出ていく。なんでもいいから蓋をしたい、そんな衝動に駆られる。

大して仲良くなかった同級生が近くに住んでいることをSNSで知った僕は、DMの文章を打っていた。送信ボタンを押す親指をなんとか抑えた。

必死に手に取ったこの蓋では、孤独の穴は塞がらないことは分かっていた。同級生に会い、居酒屋かどこかで話してる間は、孤独を感じずにいられるだろう。だが、別れを告げて駅の改札を通る頃には蓋は壊れ、会う前よりも大きな穴が空くことは分っていた。

人は孤独から逃れることは不可能だ。無理して蓋をしても、自分の愚かさと虚しさが押し寄せて、孤独の苦しさは増す一方だ。

仲良くもない人に擦り寄ったり、酒に溺れたり、何かに依存したりすることは、まったく本質的ではない。穴から目を逸らし、テキトーなものを拾って蓋をしたって意味がない。

僕らにできるのは、孤独から目を逸らさず、しっかりと受け入れることだ。

ロックバンド"クリープハイプ"の「一つになれないなら、せめて二つだけでいよう」というタイトルのアルバムがある。とても素敵な言葉だ。僕たちは、どれだけ親しくなり、愛し合い、寄り添いあっても、一つになることはできない。孤独をゼロにすることはできない。

孤独という穴をしっかりと見つめ、大きさや形を見極め、適切な蓋を探すべきだ。だが、穴の形は三者三様で、適切な蓋が見つからない時もある。そんな時は、急拵えの蓋ではなく、適切な蓋が見つかるまで耐え凌がなければならない。

今すぐ会える、明日には忘れてしまう人間ではなく、明日会えなくても、死の淵に寄り添ってくれる人間との関係を保つべきだ。

当たり障りなく心地良いだけの声より、正しい道へと導いてくれる声に従うべきだ。

人生は孤独との闘いだ。孤独を耐え凌ぎ、自分の孤独を塞ぐ最適なモノを探す闘いだ。

芸術家は孤独すらも糧にして作品を作り上げ、歴史に名を刻む。人類という大きな繋がりの中に地位を築けるかもしれない。だが、多くの人間にできることではない。多くの人間にとって孤独を塞ぐモノは、情熱ではなく、自分以外の人間だ。

人生は、自分の孤独を埋めてくれる最適な形の人間を探す旅だ。だが、孤独を抱えているのは自分だけではない。相手にも穴が空いている。自分の穴がピタリと塞がっても、相手の穴が塞がらなければ、きっといつか相手は離れていき、また穴から漏れ出してしまうだろう。

自分の孤独を埋めたいなら、相手の孤独も埋めなければいけない。時には自分の形を変えてでも。自分の形を変えるのは、とても辛いことだ。

妥協という言葉にはネガティブなイメージが付き纏う。だが、相手の孤独を埋めるために自己を曲げる妥協は、なんと素晴らしいことだろうか。

孤独を受け入れること、良質な人間関係、それを維持するための妥協。これが孤独のもっとも美しい埋め方だと思う。

 

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