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それは偏見ですらない言葉

現代は言うまでもなく情報過多社会。
読書の合間にスマホを弄り、料理をしながらラジオを聴き、Netflixを見ながらご飯を食べる。

本能的に良いことでないと感じつつも、つい情報を摂取してしまう。摂取せずにはいられない。

そんな自分に嫌気が差すたびに思い出すのは、レイ・ブラッドベリによって1953年に書かれたSF小説『華氏451度』だ。

NHKの番組「100分de名著」のサイトに良い紹介文があったので載せておく。

主人公は本を燃やす「ファイヤマン」という仕事に従事するガイ・モンターグ。舞台の近未来では、本が有害な情報を市民にもたらすものとされ、所有が禁止。本が発見されると直ちにファイアマンが出動し全ての本を焼却、所有者も逮捕されます。代わりに人々の思考を支配しているのは、参加型のテレビスクリーンとラジオ。彼の妻も中毒患者のようにその快楽に溺れています。最初は模範的な隊員だったモンターグでしたが、自由な思考をもつ女性クラリスや本と共に焼死することを選ぶ老女らとの出会いによって少しずつ自らの仕事に疑問を持ち始めます。やがて密かに本を読み始めるモンターグが、最後に選んだ選択とは?

100分de名著

この作品は愚民政策やテレビによる文化の崩壊について書かれている。刺激的なだけで価値のない情報を絶え間なく与え続けられた民衆は、正常な思考力・記憶力を失ってしまう。

70年以上前の作品なのに「現代の僕らのことを言ってるんだ」と思わされる。名作というのは普遍的な価値がある。

現代は70年前よりも情報が流れてくる量は圧倒的に増えているだろう。SNSの流行、サブスクの登場により、個人に頭に流れてくる情報がここ数年で爆発的に増えた。

そんな社会で感じるのは、自分の意思と社会の意思の境目が曖昧になっているということだ。

特定の男性のイメージを表す言葉に「女殴ってそう」というものがある。

容姿は悪くないがどこか物憂げな雰囲気があり、社交的だが家に帰ると彼女に暴力を振るっていそう、そんな男性に使う言葉。なんの根拠もない酷い偏見だ。

日頃の生活の中でこの言葉が浮かぶことがある。だが、口に出すのを躊躇う。自分の言葉ではないような気がするからだ。

自分が考えて発した言葉なのか、社会が自分の頭に流し込んだ言葉なのか分からなくなる。

言葉だけでなく意思もそうだ。痩せなきゃ、キャリアアップしよう、脱毛しなきゃ。
その意思は、本当に自分自身のものだろうか。消費を促すために社会が煽っているものではないだろうか。

「女殴ってそう」は、偏見ですらない。自分自身の偏った考えですらない。
自分の意思を一切介さずに、自分の口から出ている言葉。それがときどき恐ろしくなる。

社会という集団の中で生きている以上、少なからず外部の影響を受けるものだ。

だからせめて、自分の意思なのか、社会の意思なのかを常日頃から考えて生きていきたい。

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