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世界一退屈な物語を求めて

小説にはいろいろな性格、価値観の人が登場する。短い人生では出会えない、多種多様な人間の価値観や生き方を追体験できる素敵なエンタメだ。

だが、ふと感じたことがある。小説の主人公は共感能力が高く、感受性が豊かな人間が多い。

犯罪者や社会からドロップアウトした人物が主人公でも、感受性が高いが故に社内と折り合いがつかなかったり、人間関係の苦しみを抱える人物だったりする。

『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンはクラスメイトや教師、あらゆる人を「いんちき野郎」とこき下ろすが、自身が1番の「いんちき野郎」人間であるという自覚もある。

『人間の絆』のフィリップは、身体の不自由のせいで受けた劣等感と学業に秀でていることの優越感の両方を抱いており、それゆえに人間関係に悩み、うまくいかない原因が自分にあることも理解している。

どちらも感受性が高く、自分を傷つける人たちを憎んでいるが、自分もその1人であることを自覚している。

作者を写す鏡である主人公がそうなるのは仕方ないのかもしれない。共感能力が低く、感受性の乏しい人間は小説家になれないだろうから。

不躾な発言をする人、他者の気持ちが理解できず傷つける人、そういうキャラクターはだいたい第三者として登場する。

日々の生活でいろいろな人に出会う中で「なんでこんな発言ができてしまうんだろう」と不思議に思うことが多々ある。小説に似たような人物が出てくると「いるいる、こういう人!」とは思うが、結局それは客観的で、僕が世界を見ている視点と同じだ。

そんな人たちを外から観察するのではなく、その人の目で世界を見てみたい。

「鬱は甘えだ」と言う人はどんな人生を送ってきて、どんな気持ちでその言葉を発したのだろう。飲み会で周りが冷めているのに自分語りをやめない人は、どんな気持ちで喋っているのだろうか。

そんな人たちが主人公の小説を読んでみたい。他人の感情を慮ることなく、相手の気持ちを一切考えない。そんな人間がどのような目で世界を見て、周りからどのように見られているのか。

でもそれは、きっとつまらない小説だろう。他者を傷つけ嫌われても気づかない人が、楽しく生きていくだけの物語。

むしろ小説は、そういう人間に傷つけられた人たちの救済のようなものだ。小説というものが持つ機能と真逆のアプローチを取ることになるだろう。

共感能力が高く感受性が豊かな小説家に、共感能力が低く感受性に乏しい人物が見ている世界を創造してほしい。彼らの世界を体験したい。

そういう小説を知っている人がいたらぜひ教えてほしい。

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