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ああ無情

私の出生について、何となく感じていたことが、もしかしたら真実なのかな?と気づくことがありました。
本当のことかを証明する手立てはないので、ここで詳細を書くことは控えますが、もしもそうだったら?と可能性を考えて恐れているより、そうであると割り切ってしまった方が次への手立てが考えられるので、そう信じることにしました。

要するに、私は両親にとって『歓迎されない命』だったわけです。
特に母にとっては、私を妊娠したことで、自分の人生が狂ってしまったという恨みがあった。
母の口からも、「あなたたちのために、自分の夢を諦めた」ということを何度も聞かされてきました。
あなたたち、というのはきょうだいも含めた言葉ですが、きょうだいが生まれた時には母も割り切っていたので、長子である私を妊娠した時のショックが、最も大きかったのだと思います。

妊娠、結婚というものが、母にとって歓迎できることではなかった。
私が生まれても、きょうだいが生まれても、母にとって一生、「こんなはずではなかった」という不満は無くならなかったのでしょう。
私に対する冷たい仕打ちも、母目線で考えれば納得が行きます。

しかし子どもからすれば、母親がどんな風に感じていようとも、命を与え、これからの人生を築く指針となるべき親なのですから、母親がそんな風にやさぐれているなんて、知ったことではありません。
母親に期待しないというわけにもいかないのです。

母親の罪は、自分の不平不満を周りに訴えることをせずに溜め込み、それを自分の中で解消することもできずに、結局一番弱い立場の我が子にぶつけて解消したということでしょう。
その罪にも気づかず、ずっと自分は被害者であるという幼稚な心を持ち続けていたのです。

父親は父親なりに、私が生まれたからには子どもに構おうとしていたのですが、あまりにも幼稚な感覚の持ち主だったために、子どもを育てる『作業』(泣いたらミルクをあげる、おむつを替えるなど)に一切関わらず、気分が向いた時にだけ構っていたのだと思います。
そしてなお一層、母の苦痛は増していったのでしょう。

親となる人が、あまりにも幼稚。
幼稚な人でも生物学的に妊娠することが可能。

昨今の少子化と、虐待や不適切養育の増加の根本原因は、この矛盾にあるんだと思います。

保育士の試験はとても難易度が高いのに、親の試験はありません。
しかし保育士の何百万倍も責任が重く、難しく、自分の日常全てを捧げなくてはいけないのが『親』なのです。
なぜ社会は、子育てのノウハウを教えようとせず、親の責任感を育てようとせず、バックサポートの体制を作ろうとしないのでしょうか?

親に鬱陶しいと思われた子どもに、どうやって生きていけというのでしょうか?
そもそも親に鬱陶しいと思われた子どもを、親の代わりに社会が必要としているのでしょうか?
親が歓迎して生まれた子どもは、まず親からその生を祝福されます。
だから子ども自身も周りに喜びを与えるようになります。
そこで初めて社会に歓迎されるのです。
しかし親がその一存で、子どもの生を否定した時、子どもは生まれてきた意味を見失います。ひどければ生まれたことそのものを呪います。
世の中を恨みます。
世の中を恨む子どもを、社会は排除しようとします。
子どもには何の責任も無い。
生まれた時の親の心理ひとつで、全ての運命が決まってしまうのです。

いいとこ取りの社会に、先はありません。
社会そのものが、どんな子どもでも生まれたことを歓迎し、丁寧に育てて行こうとする意識を持てるのかどうか?

社会とは、誰を差すのでしょうか?
おそらくとっかかりは、国会なのでしょう。
生まれた時から歓迎されてきたから、当然自分の生には価値があると思い込んでいる政治家には、自分の身の回りのことしか見えません。
私のような歓迎されなかった命が多数派になり、もっと広い視点で子育てを考えようと声を大きくしない限り、社会は変わらない。
変わらないけれど、子どもの命を歓迎しない親は確実に増えているのです。

私のように歓迎されなかった命がどのように生き抜いていくのか?
それこそが、これから社会が存続していくための秘訣になるのだと思います。

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